わたしの三味線について

わたしのそばに居る三味線はなおちゃんの友人の高木さんが長年持っていた三味線だ。うちに来た時には折れて、破けて、みすぼらしい姿だった。それを錦糸町和楽器屋に持っていき、修理してもらって、弾けるようになった。竿が一般の三味線よりも細い。わたしのでかい手には小さすぎる。昔の持ち主が小さい女の人だったんだろう。華奢な三味線の姿をみると、昔の持ち主のことを想像してしまう。

高木さんはある女の人の形見としてこの三味線をずっと保持していた。

高木さんだってそんなに若くはないのだが、三味線の持ち主は彼が最後に看取った高齢の女性らしい。亡くなった時にはすでに80歳を超えていた。この人がこの三味線を弾いていたのはどこかのお茶屋。いつの話なんだろう。十数年前に亡くなったその人が80歳を越えていたというのだから、この三味線がお茶屋で活躍していたのは、サバを読んでも、60年くらいは前のことだろう。いや、もっと前かもしれない。

三年前、ちょうど、寄席にも通いはじめて、三味線が弾きたいと思っていた。買おうかなとも思ったが、ちょっと、なおちゃんに言ってみたところ、三味線があるという。

三味線がわたしの手元にやって来た時、運命的なものを感じた。

この三味線が鳴っていた何十年前という「昔」がある。

竿に、たぶん何度もここは押さえたのだろうと思わせるうっすら白っぽくなってる箇所がある。モノとして生き続けている三味線がわたしのそばに居てくれて、三味線とわたしが織りなす時空間に、弾こうと思うわたしの意志も居て、そして、このわたしの手がこの三味線を弾く。三味線、あぁ、ずっと弾いていたい。

いろんな楽器があるが、三味線はびっくりするほど未完成な楽器だ。

まったく精巧さに欠ける。

こんな脆弱な楽器を尖った撥でばんばん弾く(ちなみに長唄を習っているので)。

そこに愛着がある。脆く、弱い、完成されぬ器。

新しく弦を張り替えてくれる人の手。

誰かに弾かれることで、やっと存在できる。