表現したい人_clubhouse
SNSは誰でもの場。
表現したい人にとってそこは舞台。
これまで「舞台」といえば、演者と客との主従関係に限られていたものだが、SNSが出来てからというもの演者と客の明確な主従関係は危うくなってきた。
この前、テレビでよく見るタレントさんが「最近は誰もが表現する側に立ちたがるようになりましたよね」と言って、clubhouseを例に挙げていた。
clubhouse。わたしも最近知って仲間入りし、面白くて出たり入ったりしている。音声を素材にしたソーシャル・ネットワークで、名前を明らかにするようにしているので完全な匿名性とはいえないが、人には指紋があるように声紋というものもあるだろうから、テキストや写真よりも、はるかにパーソナルな関わり合いということになっていると思う。
特に「声を媒介としたコミュニケーション」というだけでワクワクする。わたしはかなりの「声フェチ」で、好きな声、心地よい声という好みは、食や味の好み以上に敏感だ。
話を戻すと、タレントの人の「誰もが表現する側に立ちたがる」という意見にわたしは少々、不満がある。「最近は誰もが表現する側に立ちたがる」のではなく「太古の昔から誰もが表現する側に立ちたいものだ」とわたしは言いたい。
いわば部族のような文明以前の共同体では誰もが祝祭に参加し、衣装をつけ、踊りの輪の中で決められた、あるいは自由な表現方法で一人残さず興奮の境地を得ただろう。演者と客の主従関係はそこにはない。皆、演者。皆、客である。今でも名残としての盆踊りとか、クラブ(昔のディスコ)のような場所では皆、踊り狂い、皆、それを眺める。
演者、客がパキッとわかたれていないような表現の舞台はいわばフラットで、舞台が高いところには置かれていないものだ。
SNSの興隆、Facebook、Twitter、Instagram、そして今、clubhouse・・・
これらのツールは(プラットフォームという鉄道の停車場のように言われることもあるが)、誰もが出入り自由でフラットな…… まるで、盆踊りの広場みたいだ。SNSという踊り場で老いも若きも皆ひとりひとりが踊り狂っている…… そんな踊り場にわたしも入って踊り狂っていると自覚している。
最近、わたしは踊り場の棲み分けをするようになった。
Facebookは仕事の踊り。
Twitterは落語の踊り。
instaはおしゃれ写真の踊り。
そして、clubhouseはどうか。
clubhouseでは「自分らしさ」に立ち返るような踊りが踊りたい。声を発するのだから。自省的な行為しかできないんじゃないかと思う。
内省的で、自分らしさに立ち返る踊り。
演者・客の主従関係の崩壊の危機をわたしもSNSを駆使しながら見届けていきたい。とはいえ自分が駆使していると思っているつもりだが、SNSの引きに翻弄されているというのが正直なところかもしれない。
だから、そーっとそっと。
派手な踊りを披露する必要はなしだ。仕事のインフォメーションを拡散する必要もなし。自分らしさが何なのか?ただ単純に探求してみるのも面白いと思うよ。