わたしの中の40年前のわたし
人生のところどころで思い出す同じ出来事がある。
ずっと忘れてたけど急に思い出したとか、誰かに「あんた、こんなこと言ってたよね?」と言われ、急に場面が脳裡に浮かんでくるとか…… そういう想起もあるかもしれないが、わたしがここで言いたい「思い出す同じ出来事」は、そういうものとは違う。はっと気づけば、何度も何度も繰り返し、一つの出来事を思い出している、そういう種類の想起だ。
それほど多くはない。
わたしの場合で言えば、幼児の頃のアレ、高校時代のソレ、そして、三十代に見たあの夢。そっか、三つくらいか。まぁ、最近のことで加えるなら三年前のあの日のことだな。
こんなふうに整理してみると、厳密には、いやいやもっとあるだろうと記憶連中の方から文句を言い始め、俺のことも思い出せ、あたしのことだって忘れるなとぼやき始める声も聞こえてくる。けど、奴らはここで言いたい特別な三つ、四つの想起とは訳が違う。
何かをしている時、突然フラッシュのように脳裏に映像が現れる。
こういう場合、フラッシュ・バックとか言う現代のネガティブ・ストロークを持ち出すのは野暮だ。自分にしか思い出せないあの映写機が幕に映し出す時の光線にも似たスペシャルな感じを病理にしたくない。
今朝、高校時代のソレを思い出し、ひどく納得した。
御多分に洩れず、わたしも高校時代に友人と質素な同人誌を作っていた。高校時代のソレとは「お喋り鳥」という短文のことだ。どうってことのない内容なのだが、ここに来るまで何度も何度も思い出さねばならなかった意味が、今朝、ようやっとわかった。
もう冊子もないので全文は分からないが、概要はこんな感じ。
森の中には動物たちが仲良く暮らしていた。そこに「お喋り鳥」がどこからか舞い込んで来た。お喋り鳥は森の動物たちに向かっていろんな話をする。ある時は楽しい話、ある時は悲しい話。とにかくお喋りが止まらない。最初は面白がって聞いていた森の動物たちも、だんだんと嫌気がさして、お喋り鳥の話を聞く気がなくなっていった。そして、お喋り鳥はひとりぼっちになった。けれどもお喋り鳥のお喋りは止まらない。聴衆のいない森の広場でお喋り鳥はひとりで(一羽で)喋った。
そして、お喋り鳥にもいよいよ最期の時がくる。
喋り続けた鳥のからだは朽ちて、クチバシだけが土の上で動いている。
クチバシから語られるお喋り鳥の話が森の中で響いている。森の動物たちは、あぁ、またお喋り鳥が独り言を言っているんだと知らんふり。鳥が死んだことさえ知らない。
いや、お喋り鳥は死んでしまったのか?
からだは朽ちても、クチバシだけが動いている鳥。語りを止めない鳥。
…… こういう内容だった。
わたしは常日頃、信の語り、キリスト者の証言というテーマで神学研究をしているわけだが、数年前に寄席に出会い、落語の噺を聴く日々が始まった。落語生活が始まったとはいえ、何を目的とし、どういう方向に向かおうとしているのか、何も分からないままスタートを切った。
この間、落語の師匠方の身を切るような高座に触れ、語りという性質の人間行動がいかに身体へ及ぼす影響が大きいかを目の当たりにさせてもらったが、これって、思うに、40年前のわたしがぼんやり描いていたことを40年後のわたしが掘り下げているということじゃないか。クチバシだけが森の中で語っているお喋り鳥というファンタジーをわたしは何度も何度もこの40年間、思い浮かべてきた。わたしの脳裏の中でお喋り鳥のクチバシがずっと語っている。
そういうわけで、今朝、納得したことはこうだ。
40年前思い浮かべたファンタジー「お喋り鳥」を、今、寄席で、見ている……