業(わざ)

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
ヨハネによる福音書14章7−14

「できごと」が語る「わたし」の力を祈りのなかで観想する。

フィリッポススが彼に言う。
「主よ、私たちに父を見せて下さい。そうすれば満足します」。
エスが彼に言う。
「これほど長い期間、私はあなたがたと一緒にいる。それなのに、フィリッポス、(まだ)私を知っていないのか。私を見てきた人は、父を見てきたのである」。
ヨハネ14.8−9a小林訳(岩波)

見えない、見えないってブツブツ言ってないで、
見えるまで、あきらめないで、ずっと見続けなきゃねって、
今日は思った、思い知らされた。
もしあの時、目をそらしたり、見るのを止めてたら、
子も、子の父も見えなかっただろう。
そして、もし、探さなければ、
後ろで涙を流しながら祈っている彼女の姿にも気付かなかっただろう。
こんなときは、ただ、「ある」だけ。
「ある」のを見てるだけ。
たしかに見える。
そして、見えるものを信じる。