karpos2005-04-24

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
ヨハネによる福音書14章1−12

4月24日(日)今日は生中継でベネディクト16世の着座式を見た。
福音書ラテン語(西方典礼)、ギリシャ語(東方典礼)で歌われたり、
これまではすべての枢機卿からの挨拶だったところが、三人だけの枢機卿で、
あとは、司教、司祭、修道者、家族(韓国の家族だった!)、青年が挨拶したり、
象徴的に示された配慮が新しかった。
40分間のB16の説教、その一部を少しご紹介。
全文がバチカンサイトに掲載されている。↓
Messe inaugurale du pontificat de Benoît XVI (24 avril 2005)
Homélie du Saint-Père
http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/elezione/index_fr.htm
今日の一日の写真↓
http://www.la-croix.com/illustrations/Multimedia/Actu/album/benoit/

最初のしるしは、私の肩にかけられた純粋な羊毛の布でできたこのパリウム(肩衣、三つの釘もつけられている)です(指差しながら)。このしるしはとても古いもので、4世紀の終わりからこの街の司教は着けています。これはキリストのくびきのイメージと考えられています。神のしもべのしもべのしるしです。神のくびきは神のご意志であることを、私たちは受け入れます。このご意志は、私のための、私たちを抑圧する、私たちの自由を私たちから取り上げるような外からの重みではありません。神がお望みのことを知ること、何がいのちの道であるかを知ること、それがイスラエルのほんとの喜び、それが彼らのもっとも大切にされることだったのです。私たちのほんとうの喜びである神のご意志は、私たちを疎外しない、それは私たちを清めるのです。ときどき、悲しく苦しいやり方の時もある ― でも、それは私たちを私たち自身へと導くものなのです。このやり方によって神に奉仕するだけではなく、すべての人の救いのために、またすべての歴史の救いのためにも私たちは奉仕するのです。実際、パリウムのシンボルにはもっと具体的な意味もあります。羊の毛からわかるのは、失われた羊を表象しています。牧者は、その肩に病気の羊(者)、弱い羊(者)を担ぎます。そして彼らをいのちの源に連れて行くのです。牧者が砂漠で探す失われた羊のたとえ話は、教父たちによれば、教会の、そしてキリストの神秘のイメージとして語られてきました。人間性 ― 私たちすべての ― は、失われた羊を意味します。砂漠のなかで、自分の道をみ失ってしまった羊。神の子は彼らをそのままにしておかない。彼は、そのようなほんとうに憐れな条件の中に、人間性をほおっておくことはできないのです。彼は立ち上がります。彼は、天の栄光にすべてを委ねます。失われた羊をもう一度見つけるために、彼らを追っていくために、十字架まで、ご自分の身を委ねたのです。彼は、その羊を肩に担ぎます。彼は私たちの人間性を抱えます、彼は、私たち自身を抱えるのです。彼は、良い牧者、彼のいのちを彼の羊のために与えます。このパリウムは、私たち皆がキリストによってすでに抱えられているということを語っています。しかし、それと同時に、キリストは、私たち一人一人互いに抱えあうようにと、私たちを招きます。このように、パリウムは、牧者のミッションのシンボルと成るのです。今日の二番目の朗読と福音が語っているように。キリストの聖なる心配は、すべての牧者を愛さなければならないということ。つまり、砂漠のなかに生きているたくさんの人々について、彼は無関心ではいられないということです。さまざまなかたちの砂漠があります。貧しさの砂漠があります、空腹の砂漠、渇望の砂漠、放棄の、孤独の、愛を破壊する砂漠があります。人間の尊厳に対するまったく意識のない、人の道さえない、神の闇の砂漠、魂の空疎の砂漠があります。私たちの世界には、外なる砂漠が増えつづけます。なぜなら、内なる砂漠がまさに大きくなっているからです。地の宝は、皆が生きていくために、神の庭を造っていく助けにはならない、逆にそれらは、開発と破壊の力によって、自分の奴隷にさせるのです。教会はそのなかで共に、牧者はこの世界の真ん中で、キリストのように、人々を砂漠の外に導くために、道を敷いていかねばなりません。いのちの場所に向かって、神の子と共にある友情に向かって、そして、いのちを与えてくれる者に向かって、満ち溢れたいのちに向かって。子羊のシンボルはもう一つ別の面があります。古代オリエント世界では、王たち自身が人々の牧者として任命されるときに使われたのです。それは、彼らの力の一つのイメージであり、皮肉なイメージでもあります。つまり、人々はまるで、牧者がその良い意志に従って意のままに使える子羊のようなものだったというわけです。しかし、人々の牧者、生きておられる神は、まさに神ご自身が一匹の子羊となってしまったのです。子羊たちの横に置かれ、軽蔑され、殺されました。ほんとうの牧者が福音書のなかでどのような者かが語られるとおりです「私は良き牧者・・・私は私の羊たちのためにいのちをわたす(ヨハネ10、14)」。あがなうのは力ではなく、愛なのです。ここに、神のしるしがあります。神は、愛です。神がもっと強くあってくれるよう、何回、私たちは願ったでしょうか!神が悪を討ち叩き、滅ぼしてくれるよう、そして良き世界を造ってくれるようにと何度願ったことでしょう!力というすべてのイデオロギーは、このように自分を正当化し、人間性の発達と自由に反対する者の破壊を弁護します。私たちは神の忍耐のために苦しみます。私たちにはこの忍耐が必要なのです。子羊となった神が、世界は十字架によって救われたのであって、十字架につける者によって救われたのではないと、私たちに言います。世界は、神の忍耐によってあがなわれ、人間の苛立ちによって壊されてしまいます。

これはほんの一部。説教は4枚にびっちり書かれている。
最初、説教多くの部分をJPⅡのことと、受けたミッションはこれから自分一人でするわけじゃないということを熱く語った。
このあとは、福音書から、二つめのしるしとして、
網に150匹以上の魚がかかっているのに、網が破れてないことについて語られる。
教会一致への彼の強い意向が感じられる説教だ。
そして若者へのメッセージ。
教会は生きている、教会は若い、JPⅡも言った「怖れるな」を私ももう一度言いたいと。
・・・
ここで紹介した部分は、写真でも見える肩にかかってるパリウムについて。。。
つまり、パリウムについての霊的カテケージスとでも言うべきか。
生きたシンボル。
受け継がれた教えを現在の瞬間に与えること。
イエス・キリストがどういう神かを、
わかる「ことば」で語る。
L’esprit raffiné. 洗練された知性。
彼は、彼の持ってるすべてを与える覚悟、なのだろ。
どういう新しい時代(道)が来るのだろ。