マルコ

karpos2005-04-25

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
マルコによる福音書16章15−20

昨日の続き、ベネディクト16世は、着座の式のなかで、二つのしるしを受ける。
一つは、昨日の説明にあるパリウム(肩からかけている)、
もう一つは、今日の説明のなかにある、漁師の指輪。
説教全体はこの倍はあるのだけど。。。
なんかよくわからないけど、ぜんぶ読んでもらいたくなってきた。
Messe inaugurale du pontificat de Benoît XVI (24 avril 2005)
Homélie du Saint-Père
http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/elezione/index_fr.htm
ここの写真のサイト、毎日更新されてます。↓
http://www.la-croix.com/illustrations/Multimedia/Actu/album/benoit/

牧者の根本的特徴の一つは、キリストが、彼に託された人々を愛するように、彼が置かれている奉仕において、その牧者も、託された人々を愛することです。「私の羊たちの牧者であるように」と、キリストはペトロに言いました。そして今、私にもキリストは言います。牧者であるということは、愛するということです。また、愛するということは、苦しむ準備ができているということも言わんとしています。愛するという意味は、ほんとうに良いものを羊たちに与えるということ。神の真理という食べ物、神のことばを与えるということ。神の現存という食べ物は、聖なる秘跡のなかで、私たちに与えられます。愛する友よ、―― 私は今、皆さんにこれだけは言うことができます。私のために祈ってください。私が、いつも、主をより愛することを学ぶことができるように。私のために祈ってください。私が、いつも、主の群れを、―― あなたがたすべて、聖なる教会、あなたがた一人一人、あなたがた皆ともに、愛することができるように。私のために祈ってください。私が、オオカミたちの前で、恐れのために逃げ出すことがないように。一人一人のために祈ってください。主ご自身が私たちを抱え、私たち一人一人もまた、それぞれがそれぞれを抱えていくことを学ぶことができるように。

今日の典礼のなかで、二つめのしるしが私たちに示されました。それはペトロの座の継承を始めるにあたって、この指にはめられた「漁師の指輪」です。福音書のなかで聞いたことば、牧者に成るようにと呼ばれたペトロの召命は、ゆたかな魚の収穫の物語へと続きます:一晩まったく釣れなかった漁の後、弟子達は、復活された主を岸辺に見ます。イエスは、もう一度、新たに、漁にもどるようにと弟子達をうながしたところ、持って帰られないほどの大漁に恵まれ、網の中は魚でいっぱいになったのです。153匹の大漁の魚たち。「この量にもかかわらず、網は破れていなかった」(ヨハネ21.11)。イエスとその弟子達のこの世での道行きは、このような場であることを示します、このできごとは、まさにはじまりの物語に相当するものです。弟子達は一晩中かけて漁をしたのに一匹も取れなかった、そこでイエスがシモンを呼び寄せ、もう一度、新しく網を投げさせる。シモンは、― その時はまだ、ペトロとは名付けられてなかった ―、素晴らしいことばでイエスに答えています。先生、あなたのことば(指示)に従って、私は網を投げました!そして、そこにミッションの確認が与えられます。「怖れないように、これからあなたは、人を漁どるようになる」(ルカ5,1-11)。今日、新たにまた、教会と使徒の後継者たちは、歴史の海へと舟を出し、網を投げるようにと招かれています。キリストにおいて、人々を獲得するために、― 神へと、キリストへと、そしてほんとうのいのちへと招かれています。教父たちもまた、この仕事に特別なコメントをしています。彼らはこう言います:魚は水のなかで生きるために創造された、水から取り上げられるということは死に導く、と。魚は人の食べ物とされるために、その生きるための要素としての水から取り上げられてしまいます。しかし、人を漁どる漁師の使命においては、まったく逆のことが現われます。私たち、人間は、自己喪失を生きています、苦しみと死の辛い水のなかを、暗闇の海のなかを、光もなく。福音という網は、私たちを、死の水の外へと連れ出し、神の光の輝きのなかへ、ほんとうのいのちのなかへと導きます。というわけで、― 人を漁どる漁師という使命において、キリストに従って、すべての自己喪失をもたらす塩辛い海の外に、いのちの地へと向かって、神の光へと向かって、人々を連れ出さねばなりません。このように、私たちは、人々に、神をもたらすために存在しているのです。神を見るところにこそ、ほんとうのいのちが始まります。私たちが、生きた神、キリストのなかに出会うときにこそ、私たちは、いのちが何かを知ることができます。私たちは、進化(人間の)という、突発的で、無一文な生産物なのではありません。私たち一人一人、神の思いの実った実です。私たち一人一人、望まれた存在です。一人一人愛されています。一人一人必要とされています。福音による、キリストによる喜び、この驚き以上に、美しいものはありません。キリストを知ること以上に、キリストと交わる友情以上に、美しいものはありません。牧者の仕事、宣教は、しばしば骨の折れる仕事です。しかし、その仕事はほんとうに美しいし、大きいのです。なぜならそれは、終わりなく喜びを与えてくれる奉仕であり、この世界のなかにご自分の現存(登場)を望む神の喜びを、終わりなく与えてくれるからです。

もう一つ、牧者のイメージと漁師のイメージについて指摘したいと思います。これらのイメージは、まったく明らかな方法で、一致への呼びかけを浮かび上がらせます。イエスは、「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10,16)と、良い羊飼いの話の最後で言います。153匹の魚の物語は、喜びの確認を持ってまとめられます。「この量の多さでも、網は破れていなかった」(ヨハネ21,11)。しかし、なんてことでしょうか、愛された主よ、今日、網は破れています。私たちは、悲しみとともに、あなたにこんなふうに言いいたいのでしょうか!いいえ、違います。― 私たちは悲しんでいてはなりません。あなたの約束を喜びましょう。この約束は、私たちを残念がらせはしません。あなたが約束してくださった一致へ向かうこの道の、このプロセスのために、可能なすべてのことをしましょう。主へ向かう祈りのなかで、まるで乞食のように、あなたの約束を思い出しましょう。そうです、どうか主よ、あなたが約束してくださったことを思い出してください。私たちを、一人の牧者、一つの群れであるようにしてください。あなたの網が破れているのをそのままにせず、私たちが一致のための奉仕者であるように、私たちを助けてください。

今日のマルコの福音は、その歴史的背景なしには読めないとは思うけれど。。。
>手で蛇をつかみ、
>また、毒を飲んでも決して害を受けず、
>病人に手を置けば治る
B16も「オオカミの前で恐れて逃げることのないように祈ってくれ」と言うほどだから、
やはりこの世を生きるということは、並大抵ではないのだなと、
あらためて思ってしまう、この神秘というか、奇跡というか。