お篭り

2020年が2021年に変わって、ひとり、考え事にふけっている。

「一年の計は元旦にあり」というので、今日はこれからのことを考えようとか、今日から何か始めようとか、とりあえず今すべき仕事はどんだけあるんだっけ?とか、そういう細々としたことを一日中やっているともう、2021年の一日めの夜になってしまって、こうやって一年がまた始まって、一日があっという間に終わって、二日目になって、また、年末が来るんだ。年末が来たらまた、紅白って誰が出るんだっけ?とか、なんか惚けたことで楽しまないと正月が来た感じがしないとか、そういう正月を迎える・・・のか。

しかし、紅白も掃除をしながら見ていたが、美しいからって石川さゆり坂本冬美も、いくらなんでももう熟女だな。オーケストラがバックだったら豪勢だろうと決め込んで、おご馳走でしょう、superfly。けど、志帆がマジ歌いづらそうだったな、こんなんだったら、カゴがアレンジした方がどんだけオーケストレーションとポップスが融合できるだろうな、っていうか、アレンジも指揮もなんか変じゃん?…って文句ばっかり。見なきゃいいのにね、あたいは。

これって、考え事なのか?

おまえさん、ほんとはもっと大事なことを考えるべきではないのか?

そうだな。ちゃんとしよ。

2021年はもっと自分に向き合いたい。自分から逃げたくない。

そういう時の「自分」って、ほんとに目に見えない自分だ。

皮下脂肪は厄介だけど、それも皮膚の内側で見えない。

仕方なく抱える女性性もうざったいが引っ張り出して形を整えたりもできない。

帰依している先はなんなのかとか、目には見えない。

自分はコミットしてるという時の「コミットメント」って計れるものでもない。

これらは全部、言葉で表現するほかないよな。

いわば、徹底的に限界ある主観を言語で掘り下げていくという作業だな。

デカルトを持ち出すまでもなく、わたしは最低でも自分で自分のことをわかっていたいよ。

「言」と「事」が一つというが、これには、「言⇨事」と「事⇨言」があって、前者は神的、後者は人的という感がある。たぶん、この両方を意識していないと危うく崩れていくのだろ。

「言と事」の世界に留まれるのか?っていう瀬戸際の年になるような気がする。「おまえの生の意味がある」と「言」えば、意味が生成するという「事」が成る。これはたぶん、信仰にも似た行為なんじゃないか。こういう中間地点に「おまえさんはこれからずっと留まれるのか?」と問われているように思う。