平和

karpos2005-04-26

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
ヨハネによる福音書14章27―31a

4月24日の就任の説教のつづき、これが最後の部分。アーメンでしめくくり(^^)。
しかし前半がまだ残ってるのでこれで全部ではありませぬ。
Messe inaugurale du pontificat de Benoît XVI (24 avril 2005)
Homélie du Saint-Père
http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/elezione/index_fr.htm
ここの写真のサイト、毎日更新されてます。↓
http://www.la-croix.com/illustrations/Multimedia/Actu/album/benoit/

1978年10月22日、ここ聖ペトロ広場で、ヨハネ・パウロ2世が、その職を始められる時のことを、今、私は思い出します。あのとき宣言されたことばが、私の耳に今でも響いています:「怖れてはならない、逆に、キリストに、大きくあなたがたの門を開きなさい」。ヨハネ・パウロ2世は、もしもキリストを自分たちのところに入らせるままにしたり、信仰が与える自由を受け入れてしまったら、キリストが自分たちの権力の一部を奪い取ってしまうのではないかと怖れている世の強い人々、世の権力者たちに向かって言いました。もちろん、確かに、キリストは彼らから何かしらを、― たとえば、堕落に陥れるような支配力とか、権利の横領とか、専制的な行為とか ― 奪い取るでしょう。しかし、キリストは彼らから、人間の自由に属していることがら、人間の尊厳、正しい社会を作って行こうという考えなどを奪い取ることはけっしてありません。ヨハネ・パウロ2世は、さらにすべての人々に言いました、特に若者たちに。とにかく、私たちは皆、怖れないのではないでしょうか、―― もし、私たちが、私たちのなかに、キリストに完全に招き入れるなら、もし私たちが完全に、彼に、自分たちを開くなら、―― 私たちは皆、キリストが私たちのいのちの一部を奪い取るというような怖れを持つ必要はないのではないでしょうか?いのちをほんとうに美しくするような何かしら大きなもの、唯一なものを断念するような怖れを、持つ必要はないのではないでしょうか。心配ごとのなかでは、ほんとうの自由を見つけることを、思い切ってやってみることができないのではないでしょうか?ヨハネ・パウロ2世は、言いたかったのです、ノー!と。キリストを、内に招き入れる者は何も失わない。まったく失わない。―― なにかしら、いのちを自由にする、美しくする、大きくするようなものを失うことはない。いいえ!この友情においてのみ、いのちの門は大きく開かれるのです。この友情においてのみ、人間の条件として大きく潜在している現実が明らかにされるのです。この友情においてのみ、私たちは、美しく、自由である経験をするのです。今日、私もまた、大きな力をこめ、大きな確信を持って、また、この個人的な長い生活の経験からも、あなたがたに言いたいのです、あなたがた、若い方々に言いたい、キリストを、怖れるな!と。キリストは何も取り上げたりしない、彼はすべてを与えてくれる。彼に与えた者は、その百倍を受ける。そうです、開きなさい、キリストに大きく門を開きなさい。―― こうして、あながたがはほんとうのいのちを見つけるのです。アーメン。

門を開く。
良い羊飼いは、門から入ってくる。
門から入って自分の羊の世話をする。
彼は、門が開けられるのを、待ってると。
逆に門から入ってこないのは泥棒で、羊飼いじゃないというあの、
ヨハネ福音書の羊飼いと羊の関係。
この説教が、牧者のイメージで最後まで貫かれてるのがわかる。
ほんとうの牧者は、イエス・キリスト
彼を迎え入れよ、と。
平和を与える者は誰か。平和の王を内なる祈りに迎え入れる。