ぶどうの木

karpos2005-04-27

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
ヨハネによる福音書15章1−8

4月24日のベネディクト16世就任ミサ説教。
まだ終わってないのですぅ。
今回のは、最初の最初。。。
わたしは一人じゃないっていう始まりです。
つまりは、わたしは一人じゃないで始まり、怖れるなで終わってるんだなぁ。。。
ぜんぶアップし終わったらとりあえず一つにまとめるつもり。
私の読みなので訳が気になる方はバチカン・サイトへどうぞ。四ヶ国語ほどあり。
Messe inaugurale du pontificat de Benoît XVI (24 avril 2005)
Homélie du Saint-Père
http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/elezione/index_fr.htm
ここの写真のサイト、毎日更新されてます。↓
http://www.la-croix.com/illustrations/Multimedia/Actu/album/benoit/

このところの他とないこの日々に、三回、諸聖人の祈りの歌が歌われ、この歌が私たちに付き添ってくれました。私たちの聖なるヨハネ・パウロ2世の葬儀ミサの間、コンクラーヴェに入るとき、そしてまた今日、新たな祈りの支えとして、私たちはこの歌を歌ったのです。:Tu illum adjuva ― 聖ペトロの新しい後継者を支えるため。毎回、特別ですが、今日もこの祈りの間、大きな慰めを感じました。ヨハネ・パウロ2世が逝った後、私たちはどれほど取り残された感情を抱いたでしょうか!26年間、この間ずっと、彼は私たちの牧者として、私たちの行くべき道の導き手として共にいてくれました。彼は、一人で別のいのちへ ― 神の神秘のいのちのなかへと ― 超えていってしまいました。しかし、彼は、一人だけでこの道ゆきを成し遂げたのではありません。信じる者は、けっして一人きりではない。 ― 彼はいのちにおいて一人きりではなかったし、また、死においても一人きりではない。私たちは、何世紀にも渡って連なる聖人にむけて、助けを願って祈ることができました ― 信仰における、彼ら諸聖人たちの友、彼らの兄弟、彼らは世の極みを超えて、神の栄光にまで連なっている諸聖人であるいうことを心にとめながら。私たちは、彼がすでに神の栄光に至っていることを知っています。彼が、諸聖人たちの中にいること、まさに自分の家にいることを、私たちは知っています。こうして私たちは、新たに元気を出して、主が選んだ者を知るためにコンクラーヴェの中にと荘厳に入っていくことを無事に遂げました。どのようにして私たちはその名を知ることができたのでしょうか?どのように115人の司教たち、さまざまな文化、さまざまな国の彼らが、主が、その使命を結び解くことをその者に託すと望んだ誰かを見つけ出すことができたのでしょうか?私たちはこの時、もう一度はっきりと知ったのです、私たちは一人じゃないということを。私たちは、神の友たちに囲まれており、彼らに連れて行かれ、彼らに導かれていることを、知りました。そして今、このとき、わたし自身、この壊れやすい神のしもべ、私は、この驚くべき仕事を引き受けなければならない、実際に人間の許容量を超えるようなこの仕事を。どのように私はこれをすれば良いのでしょう?どのようにできるのでしょう?あなたがた、みなさん、愛する友よ、あなたがたは、神の救いの歴史において人々と共にいた数々の名によって指し示された数え切れない聖人たちの群れに、助けを求めて祈るために来たのです。この方法は、私の意識をかきたててくれます。私は一人じゃないと。私は一人で抱えちゃいけない。実際に、私は一人で抱えることはけっしてできない。神の聖なる人々の群れは私を守ってくれる。私を支え、私を抱えてくれる。あなたがたの祈り、愛する友よ、あなたがたの寛容さ、あなたがたの愛、あなたがたの信仰、あなたがの希望が、私の歩みに共にいてくれます。聖人たちの共同体は、ただ、偉大な名の聖人たち、私たちが知っている名の聖人たちに限られていません。私たち皆、聖なる人々の共同体なのです。私たち、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けた者、すべてが聖人の共同体です。私たちは、キリストのからだと血という―このからだと血によって、キリストが私たちを変容させ、彼に似た者になるようにと望んだ―賜物によって生きています。そうです、教会は生きています。― なんと素晴らしい経験を生きていることでしょう。ヨハネ・パウロ2世の病気と死という悲しい日々の間にも、教会は生きているということが、私たちの目には素晴らしい方法で示されていました。そして、教会は若いということを。この若い教会が、世界の将来を抱えるのです。だからこそ、教会は、私たち一人一人に将来の道を見せていくことができるのです。教会は生きている、私たちはそれを見ています。私たちは、復活が約束されたこの喜びの経験をしています。教会は生きている。― 教会は生きています、なぜなら、キリストが生きているから、なぜなら、キリストはまさに復活したから。復活節のあのとき、聖なる父(教皇ヨハネ・パウロ2世)の顔が示された、あの苦しみの中で、私たちは、キリストの受難の神秘を観想しました。そして同時に、私たちはその傷口にも触れたのです。しかしあのとき、私たちはとても深い方法で、復活にも触れました。闇に覆われた時の後、まるで彼の復活の実りのように、約束してくれた喜びの経験を、彼は私たちに与えてくれたのでした。

Tokyoの家の人に情報を送ってくれって頼まれた。。。
ヨシ。。。ってことは送る前に読んじゃおうと思っていろいろ購入してみた。
さすがにLe monde特集号はカトリックに対してかなり辛(から)い、驚きだぁ。
あとご自身の著書を忘れずに一冊と。。。
エスへの道(2003)(写真上)、とりあずこれからいってみよぉ。