とどまる

karpos2005-04-28

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
ヨハネによる福音書15章9−11

これでいよいよ最後です。昨日のつづき。で、この後、二つのしるしに続きます。
ベネディクト16世4月24日就任ミサでの説教。
http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050427
http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050428
http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050424
http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050425
http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050426
なんかややこしくてごめんですが。。。
Messe inaugurale du pontificat de Benoît XVI (24 avril 2005)
Homélie du Saint-Père
http://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/elezione/index_fr.htm
写真サイト。↓
http://www.la-croix.com/illustrations/Multimedia/Actu/album/benoit/

教会は生きています。― 大きな喜びと深い感謝をもって、皆さまにご挨拶したいと思います。ここに集まってくださっている皆さま、愛する兄弟たち、枢機卿、司教、司祭、助祭、司牧に携わっている方々、カテキスタの方々。皆さまにご挨拶します、修道士、修道者、神の変容の現存を証しする皆さま。皆さまにご挨拶します、信徒の方々、神の国を建てていくための様々な場所にご自身をささげ、働く皆さま、皆さまはこの世界の中で、すべての生活の場で、神の国の香りを放っておられます。私のこの挨拶を、私たちと完全なるコミュニオンの中にはまだ共にいないかもしれませんが、洗礼の秘跡に結ばれたすべての人々にも親しみをこめて送りたいと思います。そしてまた、皆さま、愛するユダヤ教の兄弟に、この挨拶を送ります。私たちは、神の最終的な約束の中に根をおろす、大きく、スピリチュアルな遺産のうちに結ばれています。とにかく、私の思い―ほとんど発散される波動のような―この思いを、今この時、すべての人々、信じる人々、信じない人々、すべての人々に届けます。
愛する友よ、今のところ、私はまだ皆さまに統治のプログラムを紹介する必要はないと思っています。4月20日、皆さまに私のメッセージをお届けする機会をいただき、考えているいくつかの様相はすでにそこで述べました。が、また他の時にお伝えすることを忘れずにしましょう。しかし、私の統治のほんとうのプログラムは、私の意志をしないということ、私のアイデアに従わないということ、そうではなく、全教会、主のことばとご意志を聞き取るということ、主に導かれるままになるということ、私たちの歴史の中の今、この時に主ご自身が教会を導く、そのやり方に導かれるということです。そういうわけで、プログラムを紹介するかわりに、私は皆さまに、ペトロの統治のはじめに典礼の中で表現される、二つのしるし簡単に説明してみたいと思います。この二つのしるし、両方とも、今日の聖書の朗読の中に確かに反映されています。

いろんな人のことを思い浮かべてるのだろうか。
とても丁寧に、いろんな人、一人一人に呼びかけようと、心からの挨拶を。
自分の信じていることを、信じているままに、相手が誰であろうと、
語ってゆく、たいへんなリスクを負うことになるのだな、と。
それが暴力でなく、それが戦いでなく、それが平和であるために、
平和を望みながら、目指しながら、自分の信じていることを語るって。。。
いただいた恵みに、ただただ信頼し、感謝して、そして、とどまる。
とどまりながら、聞きながら、ということになるのだよね。