「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
ヨハネによる福音書14章1−6

行ってあなたがたのために場所を準備したら、またやって来る。
あなたがたをこの私のもとに引き取ることになる。
私のいるところにあなたがたもいるようになるために。
ヨハネ14.3小林訳(岩波)

仲介役としてのイエスがあの場所とこの場所を行ったり来たりしているのが、
ヴィジュアル的に語られている。
まるで見えるように。
エスの死後60年も経った頃記されたと言われるこの記事だけど、
たぶん、ヨハネはほんとうに見てたんじゃないか。
だからこんなふうに書けたんじゃないか。
見えているものを、見たように書く。
でも、考えてみれば、それしかできないものだ。
福音書それ自体が、信仰のことば。
福音記者たちの信仰のことばの奥にへと、冷めた知性でもってじっととどまる。
―― 私は道、真理、命である。
―― 私を介してでなければ、誰も父のもとに行くことはできない。
彼らが語る「わたし」の力を、祈りのなかで観想する。