マリア

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
ヨハネによる福音書20章11−18

師匠の語りはまだまだ続く。
もう世界が違う、わたしはこう思った。
テキストに根拠づけられたディスクールはもうディスクールじゃない。
(という言い方はヘンか)。
旧約聖書世界、神さまはヘブライ語で語られており、
新約聖書世界、神さまはギリシャ語で語られている。
じゃあ、わたしはどうしたら良いのか。
ヘ語、ギ語をする、ってことなのでしょうか。
この話、聞くか、聞かないか、
のるかそるか。
ため息。
師匠の話を聞いてたら、っていうかつまり、ある意味わかっているんだけど、
ヘ語、ギ語、もう一回、するかしないか、どっちかしかないわけ。
・・・
すべてを失った後、マリア、死体を見に行く。
これからはせめてイエスの死体をよすがに生きていこうと。
師匠はここでまったくのメディアとなる。
振り返り振り返る、マリアの動き。
キリストのいのちがなんともマリアに飛び込んでいる。
わたしはといえば7年間を振り返り振り返る。
一回振り返ってもう一回振り返ると、結局、同じ方向を向いてることになるんだ。