孕みと音


年の暮れ、JR市谷、わたしの両腕に渦巻く(吹きすさぶ)風を感じる。この流動体の中でどうやって立っていられるのだろう。今こそ読むときが来た。いや、読むというより、頼るってとこか。うむ、すがる・・に近いか。
毎日、ひとつずつ、読んでみよう。読みたくてもひとつ以上は読まないで・・・

孕みと音 (1982年)

孕みと音 (1982年)

 社会的に役立つことを目標としない、目に見えぬ軌道を追う生活が、歴史のあちこちに足跡を残しています。そこでは、人間の究極的なひらきという新しい課題だけが問題です。人間には不思議な窓があります。
「泉のほとり」p19

 このような托身した言葉は、言葉というものを本来的に語る人間の場合、その言葉自身にも勿論あらわれますが、そればかりではなく、まなざしや、一挙手一投足にあらわれます。
 私が復員したばかりのことでした。東京に舞いもどると、入隊前洗礼を受けた小さな教会も焼けていました。H神父を訪ねたら、じゃがいも畑をつくりにゆくところでした。私もお手伝いすることにしました。教会の焼跡の一隅の小さく区切られた土の耕作が始まりました。ごろごろと石が出てきました。私が無造作に小石をなげ出しているとき、ふと私を制するものを感じたのです。神父の石の除き方にはぬきがたい秩序がありました。その秩序は、ただの整頓の秩序ではありませんでした。何か怖いように深い自由のあらわれでした。私はその手の傍で、自分自身をこわれた楽器のように感じておりました。
「静止の二つのすがた」p26−27

押田師は、師の素直な意識層の中心に置かれていることばは『「です」ことば』とおっしゃる。「・・・である」「・・・であると思う」とすると、流れがとまる。読者がすぐに抽象化し、一般化する。そして「私のうちにおける『であることば』意識の悲劇」とまでおっしゃる。
(^^♪
わたしも真似して『「です」ことば』で、これから書いてみたいと思います。