識別


今回三日間参加した「識別」セッションの全貌はこの本に書いてある。
http://clcj.com/musoan/17.html

講師はガテマラにお住まいのカバルス神父。

神のプロジェクトは人間らしいプロジェクト

人間的価値に音楽を与える、それが神を生きるということ

ちなみに、キリスト教スピリチュアリティとか霊性とか、霊的だとかって、いったいそれって何なの?って聞かれたらどう答えるか。
たぶん信者はそれぞれ、カリスマと言われる人びとや、聖人の名前を言うかもしれないし、彼らが生きた結果の実りとか、それに付随する運動体とか、祈りの方法とか、あるいは神秘体験とか自分自身の何らかの経験を話すかもしれない。
いずれにしても、この問いに答えるとき、ただ「人間的価値を生きる」という側面だけに焦点を当てた答え方をする人はおそらくまだ少数派なんじゃないかと思う。「キリスト教=人間的価値を徹底して生きる」という考え方は近・現代の聖書解釈学を根拠に急速に発展している線。この考え方を進めていけば、これまでの伝統や制度の存続が危うくなるという危機感とともに、保守派志向からは煙たがられているという状態かもしれない。
この聖書解釈に依拠する「解放の神学」も、社会主義に対して肯定的だという観念的な側面のみを取り上げられて非難されることも多い。「貧しい者、抑圧されている者の側に立つ神」という宣言は、時に(本当はそうではないのに)闘争なんかと間違えられたりする。正義を主張するキリスト者の中には闘争っぽい人ももしかするといるのかもしれない。


バルス師の言う人間的価値は四つ
・人間の尊厳(大地の尊厳)
・寛容
・正義
・連帯
このセッションでは、自分の内なる傷、内なる光、小さな能力、小さな意識(良心)に気づき、そして、普遍的な人間の価値を見るように招かれる。その後、偶像である神を見る。

仮面をかぶった悪が光の顔をして現れる

偶像と偶像でないものの違いを知る。ここが識別でもあるんだけど、自分の内に今起こっていることを知る。慰め、すさみ、何かに招かれているような感じ、何かに誘(いざな)われているような感じ・・・。誘惑の手前のキメラの状態というのも面白いアイデアだ。そして、三位一体の神へ。
三位一体の関係性、聖霊、父なる神、イエス、そしてわたし。
ここでは、それぞれを登場人物としてみる。
識別って大きなダイナミズムのなかで行われるからけっこうたいへん。
そして、どこに自分が連れて行かれるかを見る。
神の国に連れて行かれるのか、それとも闇に連れて行かれるのかを。
そこではっきりと「神の国」とは何かが示される。
神の国とは、政治的概念でも、死後の世界でも、天上のことでもない、しかし具体的な体系を持っている、それが上記の四つの人間的価値につながってくる。士師記の時代、人間の共存、尊厳、安息日の掟、これらを神とイスラエルの民との忠実な関係性に生きた200年間がある。神の国とはまさにこれだという。
キリスト教霊性は人間的価値をきっちり生きることなんだ。
あぁ、まったくそこが問題なんだと問われるわたしです。


ただ、こういったセッションを受けて、あぁ〜良かったね〜、いいセッションだった〜、癒された〜って言うのはもっとも無痛化の罠にはめられることになると感じるよ。いや、ほんと、受けているチャレンジに留まれるようにって思う・・・