Deus Caritas Est

Deus Caritas Est「神は愛」(5),Benedicte16

5.歴史におけるエロスの概念をめぐるこの見方から、愛と神との関係性に入る前に、今日二つのアスペクトがはっきりと現われているのを見よう。つまり、愛は不滅であり、永遠であることを約束する――もっとも大きなリアリティであり、私たちの存在という日常性とはまったく異なるものであるということ。と同時にそれはまた、ある目的に向けられた道が、単純に本能によって支配されるのをゆるすというのでないことは明らかだ。清めと成熟が必要である。それらはまた、手放すという道を通って行われる。それはエロスの拒絶ではなく、「中毒」でもない、しかし、それが持つほんとうの広さを目指す癒しなのである。


それはもともと身体と魂によってなされた人間の組成からくる。身体と魂がその深い一致のなかに出会う時、人間はまったくそれ自身になれる。この一致に至るとき、エロスの挑戦に打ち勝つことができる。もし人間がただ精神だけに息づくなら、また、ただ動物的なものとして身体を拒否するなら、精神と身体はその尊厳を両方とも失う。精神を否定し、物質のように考え、身体を排除すべき現実と考えるなら、人間は同じくその広さを失う。エピキュリアンGassendiはDescartesに祝福の気持ちを込めて「おぉ魂よ!」と言った。Descartesはそれに対して「おぉ身体よ!」と言い返したと言う。しかし、ただ精神だけが、あるいは身体だけが(人を)愛するわけではないだろう。人間が、人が、統合された被造物に属するところの身体と魂として、愛するのだ。その二つが、まことにひとつの一致のなかに基礎づけられるとき、人間は完全にそれそのものになる。この方法によってのみ、その広さに辿りつくまで、愛―エロス―が成熟することができる。


今日、これまで身体性を敵視してきた過去のキリスト教を非難することがあるのは珍しくない。実際、それに陥る傾向はいつもある。しかし、私たちが見ているような身体に熱狂する今日のあり方は偽りである。単に「セックス」に堕落させられたエロスは商売になっている。それは単なる「もの」で、それを買ったり売ったりすることができる。その上、人間も商売になってしまっている。実際のところ、それは人間の身体に対して、正しい解答ではない。また人間は、身体やセクシュアリティを単なる人間の一部だと見なしている。そして、計算高い方法で使用し、搾取する。一方では、それは人間の自由性の場として考えない、他方では、何かしら自分なりの方法で、面白く、無意な次元にそそのかす。私たちは結局、私たちの存在の自由性に統合することなく、私たちの在りようの絶対性を生き生きと表現することもない人間身体の破壊という現状の目の前にいる。その身体はただ純粋生命(バイオロジー)という領域に隔離されたようなところにあるだけだ。身体の高揚の現われは素早く身体性への憎しみへと変容する。それとは逆に、キリスト者の信仰はいつも、人間は、一次元でまた二次元的に、ある一つの存在と見なしてきた、その存在において、精神と物質がそれぞれ相互浸透し、こうしてこれら二つが、一つの新しい威厳という経験をかたちづくるのである。そう、たしかに、エロスは私たちを神に向う「恍惚」へ上げたいと望む。私たちを私たち自身を超えるところに導く。しかし、だから、昇る道、手放し、清め、癒される道が求められるのである。


エロスそのものをイカンとするのではなくて、エロスの置かれている落ちた状態をイカンと言っている。で、結局、エロスが望む恍惚とか、我々自身を超える力を持っていること自体に対しては肯定してるんだよ、って言いたいという感じなのでしょうか。しかし、ここまで言った教皇ってこれまでいるだろうか?と思ってしまう。いないよね。B16、その意味では見直しちゃう。ただ、どこかに残る違和感、これは何なのだろう。あえて言葉にしてみると、「身体と魂の二元論」「精神とはどういうことか」「精神と物質が相互浸透するとは」このあたりがどうもしっくりこない。

もう一つは、だいたい教皇が(教会が)エロスについて語るということは、どういうことなのか?という疑問も現われるかもしれない。その言説が倫理的、道徳的にこれが正しいのだと人に強制する態度に見られ、煙たがられるかもしれない。正直なところこの言い方を見ているとキリスト者以外の人々にとって気分を害したりしないだろうか、というのも気になる。

それにしても、B16は思い切っている。「愛」について何か言いたいことがあるらしいことは確かだ。西洋的、二元論哲学的な部分はとりあえず置いておいて、このまま続けて、彼の言い分を続けて聞いてみたいと思う。・・・というわけで週末は家にいないのでしばらくお休み、ごめん。