神化


カール・ラーナーの「神の自己譲与」を読むとそこに「神化」という言葉が出てくる。神化とは、ドイツ語ではVergöttlichungと言い、フランス語訳になるとDivinisationと言う。百瀬訳によれば、神化とは訳注で=人間が神の存在に参与し、聖化されること、というふうになっている。
ラーナーにとって、神化するということは人間化するということと大きな違いはない。より神化されればより人間化され、より人間化されればより神化されるということになる。それもこれも、ラーナーのこの考えの根底には、形而上学的神学理解があるのだが、それがこれまでの形而上学と違うのは、ラーナーは「形相による原因性」にその根拠を置くのである。これがもし「作用による原因性」に根拠を置くとするなら、神が何らかの働きで、人間に働きかける・・・ということになって、神からの一方的な働きかけに依存することになる。形相ということであれば、、神と人間が対象的な位置というよりも、互いに浸透し合える、もっと神と人間が浸透し合えるような、神が自分自身を人間にもろに与えるというとき、その類比性、人間からも神に浸透していけるということについて踏み込めるような「関係性、コミュニケーション」の次元のことを説明できるようになる。垂直的な神との関係に水平的な広がりをあわせていくことができる。
さて、人間が神化する・・・
ある人がこれを聞くとぎょっとする場合もあるかもしれない。これがもしキリスト教的な文脈で語られないとするなら、何かしら、現人神というか、人間が神格化されたものを想像するんじゃないだろうか。でも、キリスト教で神化というと、ぜんぜんそうではない。神は自分を他者に与え、他者を徹底的に愛する神である。人間のうちに、この神の愛が働くなら、その愛が働く人間は、自分自身の身体を通して、放蕩息子の父親のような神のように、人を愛していく、ということになる。
この辺り実は難しくって、「自己譲与」(Self-Communication)という訳し方からしても、どっかで、神が上にあって、人間に神である自分を「与えてやっている」みたいな発想がありはしないか?ここを深めることって、日本の福音宣教において未開拓で難しい気がする。
『だいじょうぶだよ』の著者、晴佐久昌英神父はご病気の方を訪問をするとき「は〜い、キリストが来ましたよ〜」って言いながら病室に入ってくって話を聞いたことがある。これって実は、ラーナーの言っている神化にけっこう近いものがあるんじゃないかって思う。わたしはひとりの人間でありながら、キリストを運ぶ役目を担っている。ここまで意識できるなら、ブラボー!って思う。それは自信過剰でもなく、いばってるわけでもなく、そうすることができる「恵み」を受けているという謙虚な意識と責任でもってはじめてできることなのかもしれない。
わたしの内的態度のうちに、この聖化、神化が行われている。
第二バチカン公会議の精神は、神がご自分を啓示するその「場」は、まさに人間のうちにであり、共同体のうちにであり、教会のうちに、また、この世界のうちである、と宣言している。さて、これが、日本でどこまで受容された・・・か。内から働く・・・とすると、それに聞くっていう態度がまずは大事となってくる。


キリスト教とは何か―現代カトリック神学基礎論

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