身体と精神

カトリック中央協議会
教皇ベネディクト16世の回勅「神は愛」。エロス、フィリア、アガペの問題がどうだっけと思い、もう一回読んでみた。B16によれば、人間が一人の「わたし」という人間として存在するためには「精神」と「身体」の統合がはかられなければならない。それをバラバラには考えられないというのが根本的に据えられなければならない。
その統合のためには「愛」という働きがなくてはならないものだし「愛」こそが「わたし」をかたちづくっていくほどの大きな意味を持っているという。ギリシャ語のエロス、フィリア、アガペは愛の三つの側面を表しそれぞれ特徴を持つが、いずれにしても、人間の「統合性」のうちに、また「精神」と「身体」の「結合」のうちに、それら三つの愛は本来の働きとして発揮でき、初めて成熟し、真の意味で偉大なものになる、という。
身体の商品化について次のような言及がある。

 今日、過去のキリスト教は肉体をないがしろにしたという批判を受けることが少なくありません。また、このような傾向がつねに存在したのも事実です。しかしながら、現代の肉体賛美は、まやかしにすぎません。単なる「セックス」に成り下がった「エロース」は、商品、すなわち売り買いされるだけの「もの」となります。それどころか、人間そのものが商品化されます。これが、人間の肉体に対する優れた意味での「然り」となることはありえません。その反対に、人間は今や、自分の身体と性を、好きなように使用したり利用したりすることが可能な、自分の物質的な部分にすぎないものと考えます。また人間は身体を、自分の自由を行使するための場ではなく、自分の気に入るように快適で無害なものにするための対象にすぎないと考えます。ここで行われていることは、まさしく人間の身体への侮辱です。身体はもはやわたしたちの実存的な自由の全体の部分でもなければ、もはやわたしたちの存在全体の生き生きとした表現でもありません。むしろそれは、いわば単なる生物学の分野に追いやられます。うわべだけの肉体賛美は、容易に肉体への憎悪に変わりうるのです。これに対して、キリスト教信仰はつねに、人間を二つの原理の統合と考えてきました。つまり、そこでは、精神と物質が密接に関連しあい、精神も物質も新たなしかたで高められるからです。まことに、「エロース」は「忘我の内に」神的なものへと上昇し、わたしたちを、わたしたちを超えたものへと導きます。しかし、だからこそ、「エロース」は、上昇と自己放棄、浄めといやしの道を必要とするのです。p14

エロスもフィリアもアガペも全て肯定するというB16の愛論

「エロス」と「アガペ」―上昇する愛と下降する愛―を完全に切り離すことはできません。それぞれ異なる側面をもった二つの愛が、一つの愛の現実の内にふさわしい一致を見出せば見出すほど、愛そのものの真の本性がいっそう実現します。p19

身体と精神という二元論をまず一元論にもっていくというところで現代社会の複雑系からすると大きな困難に突き当たる。だが、だとしても、B16がここで言わんとする―「からだ」は「もの」じゃない―は、現代その辺が非常に危ういがゆえになんとかせねばと思う。だってロボが人間かも?ということになってしまう背景にはこの辺りのことが絡んでいるだろう。そうなったとき「愛」はどうなってしまうのか。