浸透

ミッション - 新生★KARPOSで書いたT氏とまたまた話しがはずむ。
理念浸透モデル:企業と宗教との比較の直観図(byT氏)

もちろんキーワードは「ミッション」!
話していると何だか分からないけどわたしのからだの(心の)どこかしらで非常に強く参考になっている部分がある。どこでどのようにそれが反応しているのかがいまだわからないんだけど、わたしのどこかで「それとはちがう」この部分・・・みたいな部分があって、それがいったい何なのか?もう一回あのご本を読んで、問題を整理すればいいんだろうなと思う。
「組織」あるいは「制度」という視点からみて、「何かしら」が浸透していくプロセスというか、流れというか、筋道というか、それそのものの議論も面白いだろうなぁ。たぶん「経営論」とかという話になってくると「人間・間」の問題として取り扱われるのだろうね。
私の方は一人の「人」のうちに起こる「何かしら」の浸透していくプロセスというか、学習というか、享受というか、その辺りに興味を持っている。で、こんなことをつらつらと考えていると、実は、集団と個って当然関係していて、だから、個人のうちに、すでに集団において見られるある種の構造(理念浸透の構造)が矛盾することなく取り込まれているってことも考えられのかも?と思ったりした。・・・社会心理っぽい。
先月号の福音宣教http://www.oriens.or.jp/fs/fukuin.htmlにこんなことを書いてみてた。

知らなければならないこと
どの宗教にも「教え」がある。特定の宗教に属する信者はおそらく、その宗教が説く教えを知り、了解し、自分の宗教の教えとしてそれを受け入れるものだろう。しかし、同時に、実際その「教え」を信者がどれだけ知っているのか、どれだけ分かっているのかということは、必ずしも一概にこうだとは言えない、まったく未知な領域でもある。
もう数年前になるが、お子さんも独り立ちされ、夫婦二人でこれからの人生を考えた末、近所の教会で洗礼を受けられたというご夫妻に、インタビューをしたことがある。洗礼までの経緯はこうである。
「これから先のこと、お墓のことも含めて、いろいろ考え始めた時、昔から慣れ親しんだ友人で、やっぱりあの人に相談しようと思った。その友人がたまたまカトリック信者だったというわけで……」。
長年、家の近くにカトリック教会があることは知っていたが、教会がどうだという話ではない。「やっぱり納得できるものじゃないと」と言われる。相談しようと決め、友人に会いに行った。そこで、これまでの人生で経験してきた宗教的な感覚、神さまへの関心、家族とどう生きてきたかなど、信者の友人といろいろ話しながら、自然と互いの口から出てきたことはすべて「そうだ、それは分かる」「そうなんだよね」と、不思議に納得することばかりだったそうだ。幾つかの宗教団体と関わりを持ってきたが、何かしらいつも疑問を持ったし、心底納得することはなかった。人生のここまで引き伸ばして、友人に相談したことがきっかけとなり、自分自身が小さい頃から尊敬し、拝礼してきた同じ神さまを、目の前のこの人も信じているのだと分かり嬉しくなって、それで受洗しようと思ったとしみじみ語ってくださった。
お二人が私に話してくださった物語。戦前戦後の激しい時代を生き抜いて、神に信頼し歩んで来られた人生には迫力があった。そして決断がある。受洗という一つの契機に飛躍された大きな決断があって、その恵みに与っておられる喜びには温かさがあった。
このご夫妻がインタビューの中で何度か繰り返しおっしゃったことが次のような言葉である。
「でもね、キリスト教の本当の教えってことはよくわかっていないんですよ」。また、そのしばらく後に続いて次のように繰り返された。「私たちは本当に納得しました。入門講座も、深く心に沁みるお話で、心が本当に落ち着くんです。これだとわかりました。だから、やっぱり、受洗したいと思ったんです」。
私はインタビュアーとしてお話をうかがいながら、「何かが」「分かる」と「分からない」を行ったり来たりするある種の「動き」のようなものを感じ始めていた。この動きはまるで一本の縦軸にある二つの端、その上端と下端を上り下りしているようにも感じられた。言ってみれば、上端は「教え」。キリスト教の本当の教えというのがどこかにあって、それを考えた途端に「分からない」と感じてしまう。そしてもう一方の下端は「経験」。こちらは教えとは違って、自分の経験から納得しているものだから「分かる」と感じる。
この両端はどちらも「知る、分かる」という働きによって意識されるから両方が切れているわけではない、つながっている。私の耳には「『教え』はわからない、でも『経験』では分かっているんです」と、こんなふうにも聞こえてくる。この動きを単純に上下の軸とたとえてみたが、左右に置き換えてももちろん大きな違いはない。ただ、「教え」と「経験」、これらがたとえ同じ軸にあったとしても、なぜだか非常に遠いところにあると感じさせられる、両極端な代物だという感だけはどうしても拭えない。お話をうかがいながら、このご夫妻が「キリスト教の本当の教えは分かっていない」とおっしゃる度に、「いや、私自身もそれが分かっているかどうかは分かりませんよ」と言いたくなるような気持ちにもなったが、そこはインタビュアーとして中立を保った。
「教え」と「経験」は遠いところに位置するのかもしれないと感じた忘れられないインタビューだった。
このインタビューに象徴されるのは「『教え』が置かれている現状」なのではないだろうか。つまり、キリスト教をはじめ、宗教にはなくてはならない(場合によっては高度な)「教え」というものがあって、実はそれはたいへん難しくて分からないものであるというような先入観が人びとの心のどこかにあるのではないか、ということである。もちろんこの話がキリスト教ではなく、仏教やイスラム教だったとしても実は同じことが言えるのは――つまり、知らなければならないことがあるが知らない、という次元の事柄があるということは――言うまでもない。
原敬子「福音宣教」2007年11月号pp47−49