神・存在

他で書こうと思ったけど流れだからここで書いちゃおう。

太田道子さんはNGO「地に平和」の代表者で古代オリエント史・旧約聖書学者である。
ルーテル神学大、ヘブライ大学、教皇庁立聖書学研究所、超教派高等神学研究所(エルサレム)を経て、新共同訳聖書編集委員という歩みは太田氏の幅というか、もうカトリックプロテスタントもないでしょ、みたいな自由さというか、これぞ超越!エキュメの鏡!って感じがする。
彼女と立教大学の佐藤研先生(新約聖書学)を囲んで彼女のお弟子さん(かな)8人の方々で現代の聖書/教会/信仰/実践の問題で座談会しておられるというのがこの本のスタイルである。読みながら付箋100枚くらいつけた。すごく面白い本。神学研究をしている学生さんたちの問題意識深化のためにもお勧めだし、キリスト者はなおさら、そうじゃない人にもお勧め。
座談会はお互いに名前で呼び合う。道子さんというのは太田氏の下の名前。
キリスト者個人とキリスト教会共同体の位置関係、昨日の本田師の位置も独特だが、太田氏の位置も面白い。

道子 クリスチャンとかキリスト教は、二重構造になっている。中世までにできあがったキリスト教という宗教制度に依存して自分の人生を追及し、その制度を守るというレベルと、更にそれでもその中でイエスという人を追い求めてついていこうという人たち。二重になっているその境目はぼやけていて、多分誰もそれを切り分けられないと言うでしょうし、多分その間で揺れているんでしょう。だから私も、教会に属することはやめない。
 イエスに従っていく者の群れは、まず教会というものがあり、それがいかにイエスを裏切っているように見えようと、1500年くらいにわたってその中の一部の人はずっとイエスに従ってきているわけですから、私もそこから出るということはしません。p.19

この後、聖書をちゃんと読むキリスト者共同体の間にご自分の場を見つけたとおっしゃる太田氏は制度としての教会との関係をはっきり理解したとおっしゃる、「自分がお節介をやく領域ではない」と。
教会に属し続けながら、教会に関わらない、というのはある意味でしんどいことなのかもしれないなと思う。教会に関わらなくても、自分自身はキリスト者であり続けるわけだから、生き方において「イエスに従う」道を模索せねばならない。教会と関わっています、宗教者ですなんていう者は、とくに「○○会」「修道会」とか属していれば、教会に属しています、日曜日にはミサに行っています、と言っていればよろしいと言うような律法学者的な発想にいつ陥れられるかわかったもんじゃない。>自分
太田氏のスタンスは非常に深い信仰経験に支えられているものだと思う。以下の発言はすごく面白い。現代に生きるキリスト者が自分が受けた信仰を聖書に沈み込んで何とかことばにしようとしておられる。

道子 私がNGO「地に平和」を始めた1995年にクリスチャンじゃない青年が二つの大学から来ました、一年生が二〇人ほど。一緒に活動を始めてすごく元気でやっていた。でも私はこの中の誰かが教会に連れて行ってくれと言ったら、どうしようかと思った。連れて行ける教会があるだろうか。行かなくても良いわよ、というわけにもいかない。それを言い出しませんように、と思っていたら、誰も言い出さなかったので、やれやれ助かった、と今まで来たんです。
厚樹 誰も言いませんでしたか。
道子 うん。何か求めて来て、そして何かここで自分たちが好きなようにやれると思えば、あえてその先どこか他に行こうと思わなかったのでしょうね。「地に平和」を取ったら次に教会も行かなきゃダメなどとは一度も言わない。「神様」とも言わない。ここで自分たちが面白く元気にやれる、そしてその上に、例えば良君なら知的障害者との関わりがある。それでもまだ欠けているものがあるから教会に行ってみようという風にならなければ、それはそれで良い。私は怖い目にあわずにすんだ。誰かどこかの教会に連れて行かなきゃならないなんてことになったらうろたえたと思う。こういう青年たちを迎えるところはどこか、あるのか、と心配して。
 どうして、いつまでもいつまでも、神は「存在するかしないか」などと言うのかな。私はそっちの方が不思議です。
研 そうですね。そういう「存在」に頼りたいのでしょうね。
道子 なんでそういう議論するの、私は絶対に言わないぞと思っているんです。「宗教」などとわざわざ言わなかった古代、生活が分裂していなかったときは、「神」と言っても差し支えなかった。全体を存在せしめている力を表現したこの語が、少しずつ内容が変化して定着している。特に、日本語では「神」とはキリスト教ユダヤ教イスラムでの「神」認識とは別の領域のことだから気をもんだりする必要はない。良いんですよ、神様なんて言わなくても。ただ問題は、人間の作り出す諸々の社会の制度や価値を最終的権威とするのか、それとも自分の内面により確かな世界がもてるか。自分の内面に一つの精神世界をもち、人間は時と所を超越して考えたり感じたりできるということを自分で体験した上で、その全てを一つの名前で呼ぶとしたらどうなるかと考えてみる。人間の限界に突き当たったこともなく、人間の内面の世界に対して或る問題を設定したこともないまま、神とは何だろう、と言ってみても答えは出ない。p.70−71

前半は、教会に連れて行く、行かないという話だが、後半は、人間存在において神を受け入れるとはどういうことか?という話になっている。
彼女は教会に属し、明らかに教会を愛している(と思われる)、じゃないと「行かなくても良いわよ、というわけにもいかない」とは言わないだろう。しかし、この話からいくと、そもそも「教会に行くとか行かない」ということが彼女にとっての根本問題ではあり得ないってところがどこかにあるようだ。
問題は、目の前の人間に、「教会に行く」とか「行かない」とか、そういう話をしたいんじゃないんだという思いが彼女の内がわにあるってところだ。↑を読んでいると、太田氏が出会って、一緒にパレスチナ問題に関わって、働こうという目の前の人と、人間の内面、その精神性、もっと言えば神性(たとえ神と言わずとも)について分かち合いたいんだと言っているように聞こえてくる。
このような根源的「出会い」こそ、実は「教会」(エクレジア)なのかもしれないのだ。