三位一体

三位一体モデル TRINITY

三位一体モデル TRINITY

すでにeireneさんご紹介http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070406そこに貼り付けてあるサイトを見れば十分かも・・・

 ある意味で、「霊」とはなかなかに怪しいものです。たとえば、聖書ではイエス・キリストのなかに霊が降りた、という表現をしています。キリスト教の絵にもよく描かれているのですが、イエスバプテスマのヨハネのもとで洗礼を受けたときに、聖なる霊がワーッと地上に降ってくる光景があります。あるいはそれは、人間のなかから湧きたってくるように感じられる、とも言われます。そして、このようにして降りかかり、湧きたってくる霊につつまれるとき、人間は神に近づいていく。そういうふうに、キリスト教では考えました。そうしたわけで、「三位一体」には「霊」が組み込まれているのです。(19p)

 まず「父」が、この世界に揺るがしがたい同一性を与えます。つぎに「子」が、それを私たちの世界につなげます。神と人間のあいでをつなぐ媒介の働きをするのです。それでは、「霊」はいったい何をしているのか。ひとことで言うと、これは増えていくものをあらわす、つまり「増殖する」のです。こうして「霊」を組み込んだキリスト教は、「増殖」現象を、自分のなかに抱え込んでいくことになりました。このことが、イスラム教とキリスト教のあいだの、もっとも深いレベルでの対立をしめしています。(22p)

キリスト教では三位一体をこう考えていると、中沢さんなりの前提をされているんだけど、いったいどういう資料を読まれて断言しておられるのか?不思議な気持ちがぬぐえない。「降りかかり、湧きたってくる霊につつまれるとき、人間は神に近づいていく」とキリスト教が考えた・・・。どこに書いてあるんだろ。
全体を読んで、宗教を相対化したときにこういう中沢さんのような発想が出現するのは否めないなと感じた。中沢さんにとって「神」というとき、それは、キリスト教の神もイスラム教の神も、はたまた神社の鎮守の神さまもすべてが相対される。

 神に祈るときと、霊に祈るときのやりかたは、違います。このことは、キリスト教だけでなく、あらゆる文化に共通しています。
 それでは、神に祈るときには、どうするのでしょうか。私たちは、神社に行って神さまにお参りするとき、お祈りしている先に何かがいるんじゃないか、何かがあるんじゃないか、と考えますね。でも本当は、「何もない」のが正しいのです。神社のご本殿の扉を開けると、鏡が置いてあったりすることがありますが、それは神さまではありません。もともとの日本の神道では、本殿には何にも置かないのです。沖縄に御嶽(うたき)という神社の原型がありますが、ここには何にもありません。林と青空がある、それくらい。もともとの古い神さまというのは、こういうものだったのですね。何ごとかおわしますかは知らねども、それでよろしいんです。ただそこには、「安定した何か」があるのです。(40p)

非常に限定された歴史に用いられた「煉獄」という教義が持ち出されたと思えば、鎮守の神さまや、天皇即位の大嘗祭が出てくる。世界各地の宗教の「へぇ〜」って思わせるトピックを引き出して、「三位一体」というテーブルクロスにパッチワーク、って感じでしょうか。
「『三位一体モデル』を先に読んだ人たちの座談会」というコーナーが最後にあって、そこを読んで「なるほど」と思った。座談会の方々はいろんな業界の方で、音楽業界、スポーツ界、教育界、それぞれのセンスでこの三位一体モデルに自分の業界をあてはめて「ふむふむ」と思っておられる。スポーツの方は、神のところに「ルール」を、子のところに「選手」を、そして、「闘技場(コロッセアム)」において増殖する聖霊。霊(コロッセアム)の運営しだいで「客の数も違えば、集まる金も違う」。こんな話になるなんて。
それもこれも、「霊」=「増殖する原理」とした中沢さんのアイデアなのでしょう。
すごいね。
◆◆
キリスト教教義は組織(システム)構造で組み立てられているということに異論はない。三位一体もイエスが言ったわけではなく、後の教会の歴史において少しずつ制定されていったものだ。イエス・キリストの出来事をどのように理解したらいいのか、イエスが伝えたかった神をどう理解したらいいのか、ある意味で「説明する」ということになる。中沢さんも様々な「説明」を読まれて、キリスト教教義を理解されたんだと思う。
そして、説明されたシステムをうまく解読し、おそらく時代的にも見て西洋資本主義発展の背景にはキリスト教のこの教義による思想背景があったに違いないと「仮定」されているのだろう。それは実は間違っていない。現代グローバリズムがこんなになってしまったのは、西洋キリスト教の影響が大だと他でも聞いているし、しかもカトリックの影響と限定して言う人もいるほどだ。
しかし問題は(わたしが感じる問題は)、「三位一体」というキリスト教教義のみならず、キリスト者の信仰においても非常に重要なタームを、このようなかたちの、なんでもない書にして、中沢さんご自身が「それでいい」と思っておられるところである。宗教学者としてそれでいいのでしょうか?
宗教は土地に根ざし、その土地の霊とともにある。その土地は、尊敬をもって拝領せねばならないし、あるときには履物も脱がねばならぬのだろう。中沢さんは、キリスト教が土地から剥がれた宗教だからといって、もう宗教としての価値を認めてもおられないのではないか、そのような印象さえ覚える。グローバリズムの中にどっぷり浸かってうごめくキリスト教の、この世の殉教者を、中沢さんはご存じないのかなと思う。残念ながら。