わたしが子どものとき月のことがうまく説明できなかったから月は神秘的なものでしかなかった。空や雲もそうで、それがぜんぜん説明できなかったからいわゆる宗教的次元でしか考えられなかった。
さらにいえば宗教的次元という言葉も神秘的という言葉も知らなかったので、結局のところ、えもいえぬ、なんともことばにできぬ、なんだかわからないけれどスゴイもの、としてしか言えなかったし、経験できなかった。ただひとりごとで「スゴー」ってくらいは言ってたと思う。
夜、子どもだけで夜道を歩いていると怖い。
怖いから自然と早足になったりするのだけど、夜空を見れば、月。
わたしにとってはこれがスゴイ経験だった。今でもあの時のあの感覚を覚えている、忘れられない。自分の歩いている速度と同じように月が追っかけてくる。早く歩けば早く、ゆっくり歩けばゆっくりと。なんでやろとは思わない。ただ、スゴイと思っただけだった。単純だったのだ。その理由を考える前にこりゃスゴイと思っただけだった。
実はそういう経験の積み重ねはどう考えても今の“宗教的経験”とつながっているとしか思えない。こんなおとなになって、それは他者との出会いでしょうとか、絶対他者との対峙でしょう、とか言ってみたりもするのだけど、素朴に、ああいう(あるいは、こういう)種類の経験は、結局のところ、<わたし>なのよねってこと。
何かしら近しい経験を思い出して共感するし、分かち合って素晴らしい共有の時間となるけど<わたし>であることには変えられない。その<わたし>の世界が<わたし>を超えて拡がって、飛び出して、「スゴー」って思うところに何かが起こってるわけなんやな。その辺りが宗教的経験とつながってるやろなって思ったり・・・