ダ・ヴィンチ・コード


もしかして、けっこう怒ってる感じですかね・・・

晴佐久昌英神父説教 
2006年5月28日(日) 主の昇天、より引用        
http://mori2001.com/mori_03/2006_sekkyou/06-05-28.htm

(…)「ダ・ヴィンチ・コード」(…)キリストは本当は神じゃなかった、ただの人だったんだとか、マグダラのマリアと結婚して子どももいて、今も子孫が生きてるんだ、とかいう何の根拠もない妄想映画ですけれど、あんなニセの言葉でもこれは事実ですと言われれば鵜呑みにしちゃう人もいるわけですよね。大勢の若い人たちが詰めかけて、不思議そうに映画を見てましたけど、やっぱり心が痛みます。神であり、人であるイエス、人として人間の苦しみを背負ってくださった神の子イエス。あのイエスを、ただ儲けたいという動機で平気でおとしめるような映画に、日本の若い人たちが夢中になって詰め掛ける姿に心が痛みます。けれども、『ダ・ヴィンチ・コード』の本の最初に「これは事実だ」って書いてあるんですけど、もし真実の言葉なら神はそれに伴うしるしを示すはず。よい本ならばよい実を結ぶはず。あの作品にどんなしるしが与えられているのでしょう。どんなよい実を結ぶのでしょう。苦しみの中で信じるよろこびを求めている人々にどんな福音を示しているのでしょう。

つまり「心が痛む」と。
私は読んでもないし観てもないんだけれど、神父さんによれば相当ですね。
けっこう、どんな映画でもチョコっとは誉める神父さんなんですが、コレ、ぜんぜんですね。そんなに酷かったのか。さらに続けてこんなふうに言っておられる。

ぼくは、大勢の若者たちが溢れている映画館のロビーで配りたかったですよ、高円寺教会の「洗礼受けませんか」パンフレット(笑)。

いや、ほんとにチラシ配りそうだけど。

今やってることが終わったら、ダ・ヴィンチ・コードについて神学者が書いた批評があって、それをまず読んでみようかと思ってる。本の内容はだいたい聞いて、なんかわざわざ読むほどでもないかもと思ってるのだけど、それをどういうふうに考えるか?ってところに興味は湧く。
晴佐久神父さんのこの話の中で感動するのは「若い人が不思議そうに映画を見てましたけど、心が痛む」の部分。
そう、キリスト教ネタってネタが多い分、何でもできて、どんなふうにでも混乱させ、マニピュレートできる。「何が真実か?」の問いを突きつけて、その答えを無限大に産出させるようなもの。そういう意味で言えば、理性で答えられる「真実」は数え切れないほどある。「真」と言いながら、幾つもの「偽・イエス物語」はあるし、「教義」という名の宗教システムもある。ダ・ヴィンチ・コードだけが真実じゃない。
人間経験とキリスト者の生活に基づいて「真実の問題」を考えてみる。人間存在の次元でもしも何らかの基準があるとするなら、まず実証次元(事実か、その状況のレベル)。次に倫理的次元(倫理的、人権的なレベル)。ここまではその人の「信」にかかわらず考えるべきことじゃないだろうか。もしもキリスト者にとっての真実があるとするなら十字架の次元。このレベルはまったく非暴力の次元を示すことになる。イエスはまったく無力の内に十字架に死んだ人だった。
自分にとって、何に基づいて「真」と確認するかは、その人の「信」による。
そういうふうに考えてみると、まことに「真実」とは多元でありながら、その人の人間らしさによって一つにまとまっていくことになる。マルコ15章39「この人はほんとうに神の子だった」と言った百人隊長は、イエスの十字架のそばにいた。なぜ、彼がそう言ったかは聖書には何も書かれていない。これをどう読むか。
読み手の自由。
そう、読み手の自由。証言を読むのはその本人じゃなくて他者。不思議なことに他者としての≪わたし≫が、証言という≪あなた≫の≪わたし≫を読んでいる。
カンヌ映画祭でのオープニングを飾ったんだけど、かなり酷評で、それはそれで、そんなに酷い映画なら観てみようという人をうながしているのかも、けっこう映画館は入ってるみたい。