無傷のなにものか


ポスト世俗化時代の哲学と宗教

ポスト世俗化時代の哲学と宗教

哲学者ユルゲン・ハーバーマスさんが「宗教には無傷ななにものかが残っている」と言っている。

さまざまな聖典や宗教的伝統においては、堕落と救済、汚れきっていると感じられた人生から救われて離脱するといったことについての直観が何千年にわたって精妙に語られ続け、さらには解釈を通じて生き生きと保たれてきている。それゆえ、宗教的共同体の礼拝に集う人々の生においては、ドグマ主義と良心への強制が避けられているかぎり、他の場所では失われてしまったものが無傷で残っていることが十分ありうるのだ。p18

失われたものが、無傷で残っている。
そうか、実際、わたしも宗教者としていろいろ悩むことは多いが、
ドグマ主義でなく、良心への強制もないから、
とりあえず、いいか。
・・・と自分をなぐさめたりして。
しかし・・・、何か失われたもの、けれど無傷で残っている、というこの表現はいいなと思う。
このような宗教者という身分となって、あぁこんなんでいいのかなぁ〜と思いつつ生きているわけだけど、自分の中に何かしらぽっと浮かんでくる灯もあるんだな。それは自分の生は実は非常に古臭いものなんじゃないかってことなんだ。現代の、動きに動いているこの渦の中で自分は、この渦というか波というか、そういうものに乗れてないって感じることが多々ある。たぶん、自分が乗れていないのは、実は失われそうになっているものをコツコツとやっているから、逆説的に、失って新しくなろうとしている世界に乗れていないということになるんじゃないかって・・・
わたしにとっては、(動きに動くこの世にはそうではないかもしれぬが) コツコツやっているこの古臭いことが非常に新しいものに思えてならないということなんだから仕方ない。
古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど新しいものを欲しがるもんでございます・・・
さて・・・
さらにハーバーマスさんは哲学と宗教の対話についておっしゃる。

この失われたものは、専門家の職業知識だけで再生したりできるものではない。この無傷のなにものかとは、なにをもって誤った生とするかについての、また社会的パトロギー、個人的な人生設計の失敗、ゆがめられた生活のありようについての、十分に複雑な表現の可能性であり、センシビリティである。哲学は、認識上の自負ではこうした次元には及ばない。この不均衡(アシンメトリー)にこそ、宗教から学ぼうという哲学の態度の理由があるのだ。同

この書はポスト世俗化時代という時代設定に平行してポスト形而上学的思考という言い方でこの世界のメンタリティを措定している。わたし自身もこのところ、形而上学的思考が終って・・・ほにゃらら、という時代の神学とやらが何なのか掴もうとしているんだけど、神学的な言説においては完全純粋に形而上学的思考なしのポスト形而上学的思考のみで神学が可能なのか?と少々疑り深くなってる。
宗教者は宗教的な言語を発するって言うんだけど、その言語だって哲学にコーティングされたものだったりする。宗教にとっても、哲学との対話はかかせない。宗教者にも哲学者が必要なんだ。コーティングされたわたしの言葉が何にコーティングされているのか、そのあたりをストイックに問い続けなければならない。そのために問うてくれる対話者がいる。


こんなこと考えてたらはるるさんが、トニー・ブレアと信仰 - はるるの勝手に独り言を紹介してた。