神のことばを聞く

久しぶりにA師の聖書講座「アモスの預言」二日連続で聴講にゆく。10年ぶりくらいだと思う。
あれほどヘブライ語をやっていた昔からするともう嘘みたいに何も読めなくなった。さっき探しものをしていたら偶然、ヘ・ギ語記憶・練習カードが出てくる。なんとこんなにやってたのか。探しもののついで、おまけに5年前の総会に向けてワーキング・ノートも出てくる。怖ろしい、ものすごい作業をしている。現状分析も教会レベル、社会レベル、相当な話し合いを繰り返している。そうやって出来上がった多元関連のレポート。お西の仲間には誉めてもらったがやはりそれだけの作業はしていたし、5年前だからまだエネルギーもあったか・・・。自他ともに。
しかし・・・今日は師の講演を聞きほとほと真似できないと感じた。そもそも真似をしようなんておこがましいのだけど。
あの時あれほど原語をやっていたのは、やっぱり神のことばに近づきたかったからなんだと単純にそう思う。
神のことばに近づきたい?そんな甘いことを言ってるから甘いことしか聞けないんだと、私の内なる声。
師は「耳に心地よくはない、非常に厳しい神のことば」を徹底的に聞き取ろうとしておられるが、やはりそれこそ誰にも真似ができないということなのかもしれない。神のことばは耳に痛い。聞くに耐えない。
師とはずいぶん距離も遠くなったがだから今日聴講に行った意味があると思う。私が今どこに居るのかをわからせてもらった気がする。そして私は私の歩いている道を自分の足で歩かなければならない。自分の耳で聞き取らなければならない、その声を。