スピリチュアル

ニューズ・ウィークでスピリチュアル特集を組んでいる。
http://nwj-web.jp/cover/contents/20070516.html江原啓之さん表紙飾る)

江原ファンの多くに共通する特徴は、ドーキンスの言う「だまされやすさ」ではない。むしろ、複雑な現代社会を生き抜く道を見つけたいという真摯な望みだ。
江原は厳しい現実のなかにオアシスをつくり出す、と言う人々もいる。「勝ち組、負け組みなどと言われ、評価基準が数字や成果に単一化するなかで、江原さんは『自分を否定しなくてもいい。失敗も魂の学び』と言う。それは救いになる」と「新潮45」編集部の吉澤弘貴は指摘する。(p51)

懐疑派に言わせれば、霊媒師を信頼しきった相談者が無意識に情報を与えているだけのことだが、この点について江原は巧みに議論の余地を残す。「安易にすべて受け入れられる方が怖い。納得できる部分だけ取り入れてくれればいい」と、彼は言う。(p51)

オーラの泉」というテレビ番組があるらしいのだけど、まだ見たことがない。土曜日の8時なんてそういえばぜんぜんテレビを見ていない。一度見てみたいなと思うが。しかし凄い流行っているらしい、スピリチュアル。
江原さんの語られることが当たるとか、当たらないとか、やはりそういうことはどうでも良さそうだ。事実、本人も「納得できる部分だけ取り入れてくれればいい」と言っているようだから。これは、ここのところ考えている「自己を内省をするための他者の存在」をうまく言ってくれているような気がする。つまり、江原さんは「とりあえず」その人の前で「霊媒」というかたちを用い「他者」となっている。つまり、前世とか守護霊という素材を語ることによって、本人に「過去を振り返らせたり」「自分自身を見つめさせたり」を、しているのだ。守護霊なんて守護の天使みたいで、ポジティブなところがうまい。
江原さんのおっしゃる「あなたは●●である」「△△でもある」ということばによって明らかにさせながら「自分という全体存在」の中に散りばめられた「多くの自分」を踏み台にし、その奥にあって普段は見ることのない「自分」を発見する。これも「内省」の一つの形態。
カウンセラーという言い方をされているのも一理ある。最終的には本人自身の「気づき」に拠っているから。
生き抜く道を見つけたいという真摯な望み。
そういう望み、誰にでもあるだろう、というのはあまりにも楽観視しているのかもしれない。実際、そのような望みさえも望むことのない機械・物質文明に毒されてしまっているかもしれないからだ。。。そういう世界を措定するラーナーの見解。

神ということばが存在しないと仮定する
そのとき人間は、もはや現実そのものの全体と対峙し、また自分自身の実存の全体と対峙することがなくなるであろう。なぜなら、まさにそれをなすものが「神」という言葉であり、他のものではないからである。それは、この言葉がどのように音声上、もしくはその由来において規定されようと変わりがない。
「神」という言葉が真に存在しないとすれば、現実一般と実存との双方から成る唯一の全体は、人間にとっては存在しないものとなるであろう。人間は自分を取り巻く世界と自分との実存において、そのつど出会う個々のものにとらわれて、自分を全く見失うであろう。人間はそのような仮定のもとでは、もはや世界と自分自身との全体に対峙して途方にくれ、言葉を知らず、悩むようなこともなくなるであろう。(中略)
人間は全体とその根拠を忘却してしまうであろう。そして同時に―これをなお言いうるとすればの話だが―自分が忘れたということも忘れてしまうであろう。もしそうなったとしたら、はたして何が起こるであろうか。人間は人間であることをやめるであろう。人間は単に知恵の発達した動物に逆もどりするであろう。
カール・ラーナー『キリスト教とは何か』百瀬文晃訳p62

逆に言えば、
神、と音声されなくてもいい、
自分に対峙するという生き方であれば(ラーナーで言えば)神を志向し超越論的経験へと向かっている。
だとすれば、スピリチュアル・ブームにも大きな意味がありそうだ。
少なくとも望みがマニフェストされている、ということで。