さからめんと

どちりなきりしたん
第十一 さんたゑけれじやの七のさからめんと(秘跡)の事
弟 後生を扶かるべき為にハ 今まで しめし玉ふ所の よく物を頼み奉る事 達して ひいですを得奉事と身体を まさしく おさむる事 此三か条斗にて 悉 皆達するやいなや
師 其儀にあらず これを たもち をこなふ為に でうすの がらさ 専也
弟 其 がらさを でうすより 下さるヽ為に 何たる道 ありや
師 御母 さんたゑけれじやの さからめんとす 是也 此さからめんとすを よきかくごを以って うけ奉るべき事 肝要也
弟 其 さからめんとすハ いくつありや
師 七あり 一にハ ばうちずも(洗礼) 二にハ こんひるまさん(堅信) 三にハ ゑうかりすちや(聖体) 四にハ ぺにてんしや(告解) 五にハ ゑすてれま うんさん(塗油) 六にハ おるでん(叙階) 七にハ まちりまうによ(婚姻)是也
弟 此七の さからめんとをば 誰人の さだめたまふぞ
師 御主ぜずきりしとの御身の がらさと 御ぱしよんの 御功力とを 我等に 与えたまハん為に さだめ玉ふ者也
弟 其 さからめんとすをば 何と様にうけ奉るべきや
師 ゑうかりすちあの さkらめんとを さづかり奉る人ハ もるたる科あらば こうくハいの上に こんひさんを 申事 専也 よの さからめんとを うくる人ハ せめて こんちりさんをもて うくべき事也 たゞしこんひさん申にをひてハ なを達したる事也
「教理書の変遷史」下川英利著、どちりなきりしたん(1591年バチカン図書館蔵)

16世紀のヨーロッパ、宗教戦争の混乱の時代、日本で、いわゆる「あちら」で流行していた「信仰問答書」がこんなふうに訳されて、誰かの口にのぼってたという歴史を思うとワクワクしてくる。
どちりなきりしたん ⇒ キリスト者の教義(ドクトリナ)
さんたゑけれじやのさからめんと ⇒ 聖なる教会(エクレジア)の秘跡サクラメント
うーん
さんたゑけれじやのさからめんと、という響きで当時の日本人はどのような宗教的経験をし、どのような信仰生活の営みをしたのだろうか。
しかしこの問いはすぐさま今のわたしの宗教的経験と信仰生活の営みへの問いに返ってくる。つまり、「聖なる教会の秘跡」というこの言葉で、今のわたしはどのような経験をしているのだろうか、どのような信仰生活の営みをしているのだろうか、ということだ。
わたしが気になっているのは、えっと、気になっているというよりも、感動してしまうのは、当時、たとえばフランシスコ・ザビエルとかいわゆる「外国人」が日本に来て、彼らの時代の「教義」を翻訳し、日本人に伝え、それを理解させ、殉教というところにまで信仰を保たせたということだ。もしかしたら、彼らが、信仰を保たせたのではない、信仰そのものが、殉教した日本人の心の奥にまで入り込んで保たせたのかもしれない。
でうすの がらさ
神(デウス)の恩恵(グレース)
殉教者の生は神からの恵みの経験ということなのだろう。それ以上ことばにはならない。