Reception


さらに、つづき。
人は、属することなく信じることができる。
信じるというのはどこかに属すとかそういう領域外をも網羅するから。属すことなく自由に信じていいんじゃないの?だから、Believing without belongingというのはまことにあたってる。私がこのフレーズに出会ったのはあるテキスト内での引用だったんだけど、そこには「・・・というショックな言い回し」とあって、うむ、私にはショックじゃないと思ったことがきっかけだった。
ここに居て、まったく驚いたことの一つ、「属すことなしに宗教を信じることができるのか?」という問いが成立するということ。いろいろ議論しててわかったことは、イニシエーションの意味の捉え方が、根本的に違っているということだった。イニシエーションとはそのなかにまったくとっぷりと浸かってしまうこと。キリスト教における洗礼がイニシエーションであるという時のそれは、神の創造された世界としてのこの目に見える世界に自分の人生まるごと全体が浸かっていくということになる。そしてその始動の日からはじまった内動は終わることがない。
私の議論の相手が考えている「信じる」の内容、つまり、宗教の次元で「信じる」ということは、自分自身の人生をそこに賭ける、投企するということだったというわけだ。
人は自由に信じることができる、という時の信じると、
自分をそこに賭けて信じる、という時の信じるは、
同じ信じるだけど、何かが違うかもしれない。
宗教という言葉は多岐で幅広く囲っているからなかなか簡単じゃない。
ところで、Reception「歓待、受け入れ、迎え」。
なんで、これが出てくるかというと、はっとした言葉に出会ったから。
聴けない単語は、発音できない。
語学学習の文脈で言われたことばだったんだけど、なるほどだった。私にとってフランス語学習で発音にはかなり苦労してる。結局、耳の中に穏やかに収まった語しか自分の口からは出てこない。読むのは簡単だけど、喋るというのはその倍たいへんなのだ。
とにかく、実にこの言い回し「聴けない単語は、発音できない」というのは、宗教的次元の議論にも言えている。イニシエーションの動きの発端は受容なはずだ。聴けないことは、宣べられない。
宣べつづけたいと思うなら、聴きつづけるということもついてくる。
何を聴くか。
昨日の話でいけば、誰を聴くか。
私のうちに、私たちのうちにいつも留まっていてくださいと祈るように。