Initiation


昨日のつづき。
属することなしに、信じること。
だけど、宗教に「属する」という語がどうもそぐわないと感じるのは、何かしらクラブのメンバーズ・カードをもらってその集団に属するといった種類のものとは、まったく違うからなのだ。
宗教と人間の関係は、イニシエーションという時を経てはじめて成立する。何かが始動し、何かに浸透され、何かを通過することによって、誰かに成っていくという、ある意味、道である。
言って見れば、このすべてのプロセスが「属する」の様相なのかもしれないが、いずれにしても、カードにハンコを押してもらって、はい、一丁上がりというようなものではない。
イニシエーションは私たちに「時」を関係性の軸でとらえさせる。はじまりがあり、一つの終わりがくる。そしてまた、はじまる。
小さい時、誰もが「将来、何になるの?」と聞かれたりする。たぶん、いろんな答え方がある。多くは職業で答えたりする。イニシエーションの話でいけば、「何になるの?」ではなくて「誰になるの?」という話になるんじゃないか。
わたしは「誰か」になる。
誰かについて、さまざまな参考書はあるが、けっしてその参考書の中の人物にはなれない。イニシエーションは目的という答えを提供するのではなく、イニシエーションにある者を包む。
つまり、彼はわたしという人間になるということになる。人間が人間らしくなるためにイニシエーションがある。宗教が現代社会に関与する場はこういう地平なのかもしれない。