Believing without belonging


属することなしに、信じること。
英国の宗教社会学あたりではこういうフォームが通説らしい。
この説、日本人にとってショックか?
日本ではよく「あの人は宗教に行った」とか「走った」とか「入った」と言う。「宗教に属してる」とはあまり言わない。「所属」って社会的な面を強調する。宗教も当然、社会的な機能を持っているはずだけど、なぜだか、いわゆる「会社に所属する」「グループに属する」といったような意味合いは持たない。「宗教に入る」というのは、そういうものとは違う。
しかし実際に「宗教を実践する」という話しになると「所属」の看板が下りてくる。宗教「団体」が所有する「教え」や「スピリチュアリティ」を共有しなければ「実践」ができないからだ。そこで、宗教→宗教所属→宗教実践、というふうに段階が濃くなるという図式が現われる。宗教に行くとか、走るというのは「宗教→宗教所属」この矢の動的道すじということなのか。
さて、もとにもどって、「属することなしに、信じること」。
いわゆる「家は無宗教ですが、お葬式はお寺さんで、お正月は神社にお参りします」というような宗教アイデンティティは、まさに「属することなしに、信じる」に当てはまりそうだ。もしそれが伝統宗教のポスト・モダン化なら、ブリタニックのキリスト教も、日本の伝統宗教(仏教、神道)も、「属することなしに、信じる」系で、解決つきそうだ。
問題は「属することなしに、信じること」は宗教と言えるのか、という。「お葬式はお寺さんで、お正月は神社にお参りします」と言う人は自分のことを「無宗教」と言うではないか。「属することなしに、信じる」という人は何を「実践」するのだろう。その人々にとって「宗教実践」など眼中にないということなのかもしれない。
宗教に行くとか、走るという言い方には「宗教→宗教所属」の部分しか言い表されていないという難点がある。「宗教に、行く、走る、入る」には、積極的に「実践」してこの世に関わりながら生きるというイメージはない。どちらかと言えば、世逃げ、世捨て、世から遠のく、という感じ。
そういうわけで、さて「宗教実践」は、現代社会に関与するのか?できるのか?と問わねばならぬということになる。もっといえば、わたしの属する宗教の現代社会に関与する実践は何か?を問うということか。