坐る  

karpos2006-11-22



La contemplation et l’action
驚いた。
千手観音を見て、活動における観想とくるとは。
すごい感性だなと思う。
面白いことを議論した。
前にEから聞かれた話そっくりの状態だった。
「なぜに、これだけ素晴らしい宗教が日本にはあるのに、
あなたはキリスト教徒なのか?」
自然宗教の問題は人間の根底から沸き起こる求道と言うところまで来て、
一気に、イエス・キリストが言わんとしたことを、
彼らがすべて理解しているというところまで飛躍する。
つまり、日本にはイエス・キリストは必要ないというところまで。
実際、そこから、
「いや、絶対必要なのだよ」って主張し始めることの違和感を、
わたしは、わたしたちは(たぶん)、嫌というほど知っている。
主張しはじめ、比較が始まると、
ある種の「システム」(組織神学の限界)に入って行き、行き詰まる。
結局のところ、イエスは完璧に人間で、その人間だからこそ、
彼らが全てわかっていることさえも知っている、
という話の方がずっと受け入れやすいようにも思えてしまう。
それにしても、
はじめて、弥勒菩薩の前に座った。
はじめに、内に起こったことは、
迷いへの直面だった。
わたしは迷っている。迷いがある。
弥勒菩薩が、鏡のように、わたしの迷いを映し出す。
そうしていつのまにか迷いが消える。
この時間、それ以上でも、それ以下でもなかった。
その時間、宗教はどうでもよかった。
迷いがあるという自分に向かい、弥勒菩薩の視線のなかに入った。
それだけだった。