マルタ

karpos2007-07-24


22日(主日)の福音「マリアとマルタ」。
フェルメールの「http://www.icnet.ne.jp/~take/2.html」イエスの右手が象徴的。→
絵の中心にあって、上を向いている。
マリアを指すと同時に温かい上からのものを受け取っているよう。
「マリアとマルタ」は、とっても分かりやすい話だし、誰もが「私はマリアよ」「私はマルタよ」とか言って、
けっこう自分にもあてはめやすい事柄だから、いろんな解釈があって面白い。
「マリアは良い方を選んだ」の一文字「は」を「も」に変えただけで、
マリアが自分の良い方を選んだのだから、マルタはマルタで、マルタにとって、
あなたも自分の良いと思うこと(仕事?)を選びなさい・・・って解釈になるのかぁ〜ということを知る。
マルタとマリア | CYCLE OF JOY
そうなると「良い方を選ぶ」ということが「自分の・・・」って話になってしまうんだな。
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その日のミサ、私が聞いた説教は、つい最近、無人島に遊びに行ったという楽しいお話から、
人と人とが大切にする、大切にしあうことは何か、つまり「愛」、という線にいき、
さらにそれはキリスト者の生活の本質のような結論に発展し、
「二つあって一つのことを選べって話じゃなく、一つのことを選べばいい」ということなんだというシメだった。
マリアとマルタの話にはぴったりだなぁ〜と味わった。
一つのこと、ということと、良い方。
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私自身が「マリアとマルタの話」で感じたことは「行いactと恩恵graceの統合」という側面だった。
マリアが観想的で、マルタが活動的、とも言われることがある。
けど、誰々さんは観想的、また他の誰々さんは活動的と、そういうことでもないだろうと思う。
一人のキリスト者の内にもその両面はあって、
その両方の動きが行ったり来たりする循環においてこそ「信の人」という新しい人間像が立ち現れるように思う。
マリアが話を聞いていたという部分はやはり「恵みに満たされる」ということじゃないかと解釈している。
amazing grace、恩寵。
いろいろ解釈があって面白いところ。
ちなみに、マルタという名はアラム語で「女主人」ということらしい。
「イエスを家に迎え入れた」(38節)はマルタだった。

み言葉のわかちあい―主日の聖書黙想

み言葉のわかちあい―主日の聖書黙想

解放の神学で有名な神学者グティエレス主日の説教(わかちあい)ではこうある。

彼女(マリア)は、おそらく、これまではマルタの仕事を手伝っていたが、今はすわって主に耳を傾けている。ある人が語らなければならないことに興味を持つことも、その人を受け入れるひとつの方法である。しかし、ことはそう簡単ではない。
エスの時代、律法学者たちは、神の律法の教えを学ぶことは女性にはふさわしくないと判断していた。これは男性の仕事であり、責任であったのである。マリアはこの仕事が好きで、主もそのことを喜ばれた。マリアは主の足下にすわって(39節)、人間としての権利を要求した。つまり、イエスの口から直接に「代々にわたって隠されていた、秘められた計画」(コロ1、26)を聞く権利、女性の弟子になる権利である。(p144)

エスは男フェミニストのハシリだったのかも...