教会で話す

昨日のことなのに一週間、いや、もう一ヶ月前のように感じる。
長い48時間だった。
もちろん、新幹線で移動した、今日は二つ授業した、だからということもあるかもしれない。
でも、違う、あきらかにいつもとは違う。
あの体験を消化する、というか「わかる」には呆然とするところに置かれる必要があったのだろう。
48時間、時間的にも空間的にも遠くに連れて行かれた。

信者講座にはじめて呼んでいただいて、話させてもらった。
教会で話すということが、どういうことかを教えてもらったような気がする。
たぶん、わたしが教会で話したのはこれで二回めになると思う。
一度は20年前のわたしの洗礼式で、
「信じますか?」「信じます。」「拒否しますか?」「拒否します」の、あの信仰宣言。
そして二度目が、昨日ある教会の信者講座で話させていただいたってことになる。
もしも人生にターニング・ポイントというものがあるなら、
間違いなく、昨日の信者講座でのことはわたしのターニング・ポイントになるだろう。
そして一度目のそれは、自分が洗礼を受けたということだろう。

わたしは、今まで、教会の中で、たくさん話を聴いてきた。
福音を聴き、説教を聴き、そして、信者さんからお一人ひとりのドラマを聴いてきた。
しかし、実に、話したことはあまりないのだ。
教会で話すということは、巷で話すということとは明らかに異なる。
学校や、たとえカトリックセンター、カトリック学校と言われてもそれは教会とは違う。
ここでいう教会は、カトリック教会であろうとプロテスタント教会であろうと、
教会と名のつくところなら、すべて教会という意味。
そう前置きをした上で、教会で話すということは他で話すということと違うということだ。
教会で話すということはつまりイエス・キリストの死と復活なんだ。
わたしも彼の死と復活を過ぎ越す、ことになる。

これまで、わたしに話してくれた人々のことを思い出した。
彼らはまさしく死と復活を過ぎこされたんだと、はっきりわかった。

話すということは、すでに死に、
話し終わるということは、すでに復活している。

わたしは自分が洗礼を受けた後、修道院に逃げていた。
教会にはあまり行かず、修道院ばかりに行っていた。
修道女になる気はさらさらなかったが、祈ったり、シスターたちと話をするのが好きだったから。
そして、実際、修道女になった後も、
教区の青年会とか、学生センターとか、つねに教会の周辺に位置している。
わたしが教会で話すということは、つまり、わたしにとって、
ファリサイ派エッセネ派の人間が、
イエス・キリストの心臓の中にずぼっと飛び込むようなもの。
わたしは、そう理解した。

まさに教会はイエス・キリストの心臓だと思った。
キリストの心臓はほんとにふところ深いよ。
心臓に飛び込むということはまさに、イエス・キリスト化するということ。
昔、師匠のI神父は、ミサでの説教がどういうものか、
司祭が説教をする意味がどういうことかを話してくださったことがあるが、なるほどだった。
からだ、というより、心臓だ。
中枢ってことだ。
心臓の内部でどんなことが起こっているのかも知った。
どくんどくんと動いている。
それは、神が注ぎだしている血液。
生かされているということを目の当たりにする。
心臓の内部でどくんどくんと脈打たれている感じ。
◆◆
ターニング・ポイントってあるよね。
そうなってしまった。
H神父が「あんた一回教会でしゃべってみよ」という機会をくださったのは、
それほど深い意味なく、だと思う。
友だちだからってことだろう。
いつもそうだ。
何も深い意味はない。
わたしが教会に足を踏み入れた、最初の一歩もそうだった。
友だちが行くからって要理を始めた。
友だちはひとり、またひとりとやめていき、
最後にわたしだけが残った。
そんなことで、
わたしにとっての二回めのターニング・ポイントが来た。
そう、到来した。