からだ


マシアさんのブログ
Convivencia de religiones

スペイン語で書かれているのでわたしはそのままでは読めないが、
Google Translateで英語とか仏語とかにして読むと何となく分かる。

5月19日付の「Partir pan, compartir vida (1) パンを分かつ、いのちをともにする(って感じかな?)」から七回にわたって、「キリストのからだ」「いのちのパン」「ミサで行われていることは何か」について書いておられる。
その中には旧態以前の壁に向かって行われているミサが今でもあることについても触れられている。訳語で読んでいるから誤読もあるかもしれないが、師の思いが激しく綴られているのは何かしら伝わってくる。


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キリスト教という宗教には驚かされることがいっぱいあるが、なかでもわたしにとって大きな驚きは「キリストのからだ」である。
エスがこれからもずっと「これ」をするようにと言われた単純な仕草だが、それが、これほどまでに何かを分からせてくれるというのは、ほんとうに驚きである。イエスはいちばん近い者たちと最後に食事をした。その食事のときに、パンを裂いて「これはわたしのからだ」だと言って、パンを皆に渡したのだ。皆はそれを食べた。関係性なしにはあり得ない行為。
わたしも洗礼を受けてからというもの、はじめてそのパンを食べてから、目に見えるわけではないが、イエスのまなざしを見ている。くりかえすが、目に見えるわけではないが、見ている。

使徒言行録の次の部分はとても好きな箇所だ。

毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた。(使徒言行録2.46)

残された弟子たちが、イエスがこれをしなさいと言ったとおりにやっている。
言われたとおりに「パンを裂いて、食事をしている」。この場面を想像すると、皆が無我夢中で集まって食事をしている光景が見えてくるようだ。彼らはこれをすることで、イエスが自分たちと一緒にいるということを、はっきりと、リアルに、そして十分に分かったんだと思う。
イエス・キリストの現存は、「パンを裂いて、渡す、食べる」、という共同体の行為をともなった、しかも時間というまったくの限界の中にある。たぶんそのとき彼らは「からだ」というものが何なのか分かっただろう。
「からだ」と「かたち」は違う。
行為が伴わなくてもかたちはあるが、からだにはどうしても行為がともなう。
それだけに、生きて、動く人間が人間らしくあるために、人間はかたちをもっているのではなくて、からだをもっているんだ。キリストのからだ、というとき、それも、キリストのかたちではなくて、キリストのからだである。
キリストのからだはただ一つ。ナザレに生まれ、ヨルダン川で洗礼を受け、人びととともに生き、神を愛を告げ知らせ、十字架に死んだ、あのイエス・キリストのからだである。キリスト者はそのからだを食べる。驚きとしか言いようがない。


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カトリック新聞5月25日付「キリストのからだ」書きました。

カトリック新聞トップページ
「キリストのからだ」
私たちの手のひらの真ん中に天からのパンが降って来る。
「キリストのからだ」
「アーメン」
今日のこの一日を生かしてくれるいのちのパン。
私は憧れていた。
洗礼を受ける前、大学でのミサ、「聖体拝領」という時間になるとはるか向こうの会衆席の前方で一人、二人と立ち上がり、何かを食べているようだったが、私は自分の席に座っていた。何度も見ていると食べたくなってきて、いつしか私の目は羨望の眼差しに変わっていった。パンがいのちの源だということに理屈はなかった。
今年の復活祭、お母さんと五歳になるお嬢さんがご一緒に洗礼を受けられ、お母さんは大人だからすぐに聖体拝領をされたが、お嬢さんはできなくて「どうして私だけ食べられないの?」と、大泣きをされたという話しを聞いた。
お母さんや神父様は慌てて彼女をなだめたらしいが、このお嬢さんの気持ちはよく分かる。問題はあのパンなのだ。あのパンが素晴らしいことを、小さな子どももよく分かっている。
私は憧れている。
パンを割いてそれを私に与えてくださる方が誰なのかを知って、ひれ伏す。その方がどんな思いでこのパンをくださっているのか、どんな思いで私に近づこうとなさるのか、それを知って、そのような愛に憧れている。
三年前、女性の牧師さんが司式するプロテスタント教会の礼拝に典礼神学の授業の一環として与った。パリの郊外の小さな教会だった。あたたかい礼拝だった。私は、後のディスカッションの時、「礼拝の様々な儀のうちで、あなたにとってもっとも大切なところはどこですか」と聞いた。彼女は、「パンを割いて、渡すところです」と答えた。
イエス・キリストご自身がなさったこの行いを、彼女は女性として、しかも同じように行うこととして受けとめていた。主がどれほど私たちを愛してくださっているかを、パンを割いて、渡すたびに知るという。このパンが素晴らしいことは間違いない。
そして私はずっと憧れ続ける。
パン、そのものになることを憧れ続けている。生かされた自分がもうすでに自分だけのために生きているのではないということを知って、最後まで、与え続けることができるようにと憧れている。
「わたしたちの裂くパンはキリストのからだにあずかることではないか」(一コリント一〇・一六)
ご自分のからだを渡し、あなたたちは永遠に生きると約束してくださる方が、今日、私たちのからだの中に、天から降って来られる。恐れることはない、世の終わりまでいつもともにいると、キリスト者のからだの中から主は語られる。