再定義


すぐ帰ると言いながら、もう二週間も書いてなかったんだなぁ・・・
夏ってあっという間にすぎてく。
いつだってそうだな。
すなわち、楽しかった!ってことだよね。
◆◆
さて、この前の日曜日、
山○さん、川○さんがうち(関西の)を訪問してくれて楽しい食事をした。
4時ごろ集合ね〜なんて言って時間ぴったりに食べ始めはっと気づいたら10時だった(笑)。
なんと6時間もご飯してたのか!ってビックリした。
そこで聞いた話なんだけど・・・
岩波の雑誌『思想』に荒井献先生がキリスト教の最近について書いておられるらしい。
しかも最近、ある教団のある牧師さんが退任勧告を受けたって話らしい。
なんで『思想』に?って話になったんだけど、
ネットで見てみて、いやはやまったく、深い思想の問題だって思った。
キリスト教の再定義に寄せて」と題された荒井先生の巻頭言は、佐藤研先生の新著『禅キリスト教の誕生』(岩波書店、二〇〇七年)を紹介しながらの、キリスト教内部で現在起こっている兆候、佐藤先生のカテゴライズに拠りながらのキリスト教の再定義のためにどうしたらいいのかを問われた非常に刺激的なものである。
こちらの↓バックナンバー2008年第2号No.1006「思想の言葉」をクリックすれば読めますヨ。
雑誌 - 岩波書店

…佐藤によれば、これからの「キリスト教」は、イエスをキリストと信ずる「信仰」から、人間と「同等なる者の第一人者」(primus inter pares)としてのイエスにおいて人間の本質を「覚知」し、それを実践する宗教へと、自己をラディカルに変革しなくては、将来生き残ることは不可能である。しかもそれは現に、欧米や日本において佐藤のいわゆる「禅キリスト教」として「誕生」しつつある。しかし、いわゆる先進国のキリスト教のメーンストリームは総じて、このように果敢な自己変革に取り組んではおらず、その中のとりわけ保守的部分には、逆に「これまで以上に伝統主義に回帰固執する傾向」が見て取れる。キリスト教の中で最も多いこの部分は、「信条的信仰生活」に引きこもって、辛くも自己を保存している(「定常キリスト教」)。そして、残りのより少数のキリスト教徒には、一方ではこうした「時代錯誤的な反動退化」と、他方では「急進的変革」の間にあって、一定程度の改革を目指す部分も存在する(「良識キリスト教」)。

キリスト教そのものに対してラディカルな問いを投げかけておられる。聖書神学者というお立場からのというだけではなく、一人のキリスト者の思索の熱情が感じられる。
あと『禅キリスト教』読まなきゃと思った。
そこで、ある牧師さんの退任勧告なんだけど。
日曜日にも、たとえばカトリックでは神学者が教授職を剥奪されるとか、司祭が司祭職を取られるとか、本が禁書になるとか、そういうのは「ローマ」という制度があるからであって、プロテスタントにもそういう制度があるんだねぇみたいなお気楽な話しをしてしまったんだけど、これはそんなのんきな話じゃなくって、荒井先生の発せられる問いについて本気で考えなきゃなんないことだって・・・
問題は先生のおっしゃる、

キリスト教に伝統的な、例えば「初代教皇」ペトロと「裏切り者」ユダに象徴される正邪の二分法的思考を、その「恵み」が万人に及ぶ神の愛の宣教によってすでに無化していたのが他ならぬイエスであり、そのイエスをこそキリストと信ずる信仰共同体が傍流であってもキリスト教の歴史に存在した・・・

この「信仰共同体」の清々しさを、がっちがちの制度(カトもプロも持ち続けている)の内部からどう再定義していくかってことなんでしょぅ。
荒井先生が書かれているのだけど、佐藤先生は「教会の洗礼や聖餐にほとんど興味を示さない」とのこと。
退任勧告を受けてしまった牧師さんが問題とされたのはまさしく教会の聖餐についてだった。教会の「超」内部な問題に抵触してしまうところで「再定義」を試みようとするそここそ、実はほんまもんの「再定義の場」なのかもしれないってことだよ(だからって伝統をひっくり返せばいいとかそういうことを言っているんじゃないヨ)。

思想 2008年 08月号 [雑誌]

思想 2008年 08月号 [雑誌]


今日のマクグラス

「教会の教理」の項
事実、教会は16世紀後半の社会制度をかたどったものなのである。プロテスタントカトリックを問わず、教会についてのキリスト教の教理には常に制度的な側面が存在してきた。
p679−70
キリスト教神学入門