視線

本田哲郎師「釜ヶ崎と福音」再読。

釜ケ崎と福音―神は貧しく小さくされた者と共に

釜ケ崎と福音―神は貧しく小さくされた者と共に

表紙はアイヘンバーグの宗教画。
画家がニューヨークの炊き出し風景を見ていて自分自身に問いかけたところからこの絵が描かれたそうだ。イエスは炊き出しを配給する側ではなく、炊き出しの順番を並んで待っているホームレスの人々の側に立っている。
この絵はもう何年も前に見たのだけど胸が突き刺されそうになるほど痛かった。本田師がこの絵を表紙に持ってこられる気持ち。この書はすべてこの絵に象徴される視線に貫かれている。

・・・わたしは夜まわりをやっていました。毛布や温かいみそ汁を配っていた、そんな中での出会いでした。その人から「兄ちゃん、すまんなあ、おおきに」とたったひとこと、返してもらった。ただ、それだけのことでした。でも、なぜか、そのとき自分が解放されたのです。
 そんなはずはない。これまで何十年も教会で学び、教えてきた。しかし、その教会では、聖書にいわれているような心からの解放、真の喜び、福音的な生き生きしたものは見出せなかった。それなのに、教会とは無縁の、こちらが手を差し伸べなければならないような人、その人が聖書の語っている、パウロが力強く訴えている福音の力を与えてくれた。いや、そんなことがあるはずがない。p80−81

 パウロが呼びかけているのは、イエスが死んで間もないころの教会です。ここに描かれている初代教会のメンバーと、いまわたしたちが目にする教会のメンバーとはまるで質が違います。申命記にみた、旧約の民が選ばれたのと同じ原理で集められているのです。「世の無に等しいと見なされている者の集い」。これこそが教会なのです。そこそこに満ち足りた者同士が、仲良しごっこをするために教会に集まってきても、それは新しい選びの民の教会とはいえないのです。
 カトリックプロテスタントも、選びの本質を無視したそんな集いを大切にしているために、教会自体が弱体化している。外に向かって何も働きかけられない。かけ声はいい。「さぁ、頑張ろう。福音を宣べ伝えよう。御ことばを宣教しよう。キリスト教をひろめよう」。声はいくら出せても、パワーがない、中身がない、自分たち自身が空っぽだから。「信者だから、わたしは神に選ばれた者。世の中に対して地の塩としての役割を果たす、世の光としての使命を果たすのだ」と錯覚している。自己暗示の強い人、自己評価の高すぎる人は、けっこうそれで満足して、「わたしは神の使者として、なにかしらのことができた」と思ったりするかもしれない。しかし、正直いって、ほんとうのところは、「いや、やってみた、やる努力はした、頑張ってはみたけれど、どうもいまいち自分をとおしてはパワーが伝わってはいないんじゃないかな」と思うはずです。そこらあたり、わたしたちは反省すべきなのではないか。p95

おそらくこれは本田師の視線でみた教会の分析。
この書の大部分は師が釜ヶ崎で体験され続けている「今」を語っておられ、ご自身の聖書の読みをその経験を通してもっと深く理解されようとするその証言だから、あまり多くは、教会のあり方に関して批判もされなければ、問題視もされていない。でも、私は、ここの↑箇所には、教会にとって何か大切なもの、本田師個人のキリスト者としての体験と共同体の体験との間に橋をかけるような何かとても大切なポイントが隠されているように感じる。たぶん方法論じゃないってことはわかる。何かしら視線のようなもの、つまり認識の問題なんじゃないかと思う。
第三章では「いま、信頼して歩みはじめるために」と題されて社会活動の霊性スピリチュアリティ)の問題が考えられている。はじめに「良識的判断」への丁寧なアプローチがされる。カトリック教会に潜在するブルジョワ志向の再考という感じがする。そして次に「真の連帯」。解放の神学のスタンスとも取れるがこれは本田師ご自身が釜ヶ崎という場で試行錯誤された末に産まれた日本人キリスト者の実人生だろう。