今を待つ

この一週間、説教者のリアリティについて考えていた。考えても、思い悩んでも、何も答えは出てこない。ただ、今日の授業では違っていた。今日はたぶん「問われるだろう」と思っていた。遠慮がちに話しながらも、あの話の最後はやっぱりストレートに問われた。
「もし、この教室に誰か銃を持った人が入ってきて、みんなを殺して、先生だけが生き残ったらどうなん?ゆるせんやろ」
「ゆるせんよ、ゆるせるはずがない」
それから「ゆるせない」というかたまりのようなものが腹の底から喉まで上がり、授業を始めても泣けてきて、どうすることもできなかった。先週の新聞に自分はこう書いた。

今を待つ
 あの洗礼者ヨハネでさえ問わなければならなかった。
 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」
 牢の中に閉じ込められているヨハネは実際に救いの現場を見ていない。ただ、次々に聞こえてくるイエスの評判に耳を傾け、牢の外で何かが起こっていることを感知しているだけだ。ヨハネはイエスに友情を込めて、兄弟のように感じながら、問うてみようと思ったのだろう、「救い主はあなたですよね」と。
 しかしイエスはその問いに対して「そうだ、わたしだ」とは答えない。「わたしが来るべき者だ」とは言っていない。
 イエスヨハネの弟子に向かって「あなたたちが見聞きしていることを伝えなさい」と言う。今、牢の外で起こっている出来事を、ありのまま、牢の中にいるヨハネに伝えよ、と言っているのだ。
 今、起こっている解放の出来事、救いのみ業。見えるようになり、聞けるようになり、浄められ、起こされ、立ち上がらされ、だめだったものが、だめじゃなくなり、一人ぼっちだった人が、一人じゃなくなっている。勇気がなくて言えなかったことが、言えるようになり、迷いが、晴らされる。そして、隠されていたことが明らかにされ、ゆがんでいたものは、真っすぐにされる。
 どうだろう。わたしは現実のうちに、このような出来事を受け取っているだろうか。
 新聞やテレビをにぎわすさまざまなニュースを見る時、その中に、解放の出来事、救いのみ業を見いだすことはとても難しい。
 誰かが事件を犯した。逮捕された。真相はこうだった、どれだけの人たちが傷ついた。情況が悲惨で、残酷であればあるほど、事件を犯した人を見る。どこにも持っていきようのない複雑な思いを、その人、本人にぶつけるのである。傍観者は当事者ではないから痛みもない、解説者になってしまう。
 あるいは、無力感に打ちのめされる。わたしにはなすすべがない、敗北を味わう、つまずきである。
 だから、今、目の前の出来事の中に、救いと解放を見顕すことだ。ありとあらゆる出来事の層からイエスが見つめる救いをわたしが見ることができるように、忍耐深く待たなければならない。今は一瞬だが、待てば長い。
 一人ではできない。ヨハネの弟子たちも複数いた。友と一緒にやっていこう。騒々しく叫ぶメディア拡声器の中で誰かが告白する小さなささやき声に耳をすまそう。テレビ画面の背後に拡がる闇に真実の光が射すように目を凝らそう。救いと解放につながるなら、ちょっとした出来事も見逃さぬように。
 わたしたちはヨハネのように牢にはいない。牢の外で、神の救いを知る「今」を待ち望むことができる。天における喜びを見いだそう。持っている感受性すべてを使って、出来事を通してイエスに触れよう。
カトリック新聞12月16日付キリストの光、光のキリスト(援助修道会 原敬子)

今日の授業は「キリスト教の礼拝」というテーマだったが、こみ上がって来るものを我慢しながら、パンの奇跡、最後の晩餐、洗足と話しを進めていくと、次第に自分とイスカリオテのユダが重なっていった。ユダだけじゃない、ペトロも・・・弟子はみんな逃げた。みんなうらぎった。
こういう体験は最初で最後と思うが(わからない)今もいろんなことを思い巡らしている。