信じていることを言うこと


マタイ福音書1章前半は系図、後半はイエス誕生。

ナザレのイエスは復活して、今も生きている。

福音記者マタイは、彼の生きた信仰共同体に、この「信」を宣言、説教するために、
手元にある「マルコ福音書+Quelle資料+口頭伝承」をもとにしながら、
彼が育った伝統宗教としてのユダヤ教で用いられる説教手法、ミドラーシュを用いて書いた。
最初の系図は、旧約聖書に登場する数々の王たちの名、特にダビデが中心に据えられる。
エス誕生の次第から2章に入り、ヘロデ王との確執(子ども殺し)、エジプト脱出、
4章の荒野での40日間の誘惑、これらは、出エジプト記1−2章と同じ展開。
というわけで、マタイが説教するために用いたエレメントは、

わたしの信(X)
共同体の信(マルコ福音書+Quelle資料+口頭伝承)
伝統宗教の信(旧約聖書

ということになる。


幾つか説があるそうだが、このマタイの手法は、

  • 当時の初期キリスト共同体ディダケーが生み出した。K.Stendahl,1954
  • 共同体の長として配慮、宣教師の司牧的な手法として用いられた。R.Thysman,1974

1、2章でのイエス誕生の中心は、
旧約の預言者によって告げられてきたイエスは、ダビデの子、メシアというメッセージ。


上の図を見ながら、考えてみたんだけど、こういうのありかな?

karposの信(X’)―――――――― マタイの信(X)
karposの共同体の信(聖書、伝承)― 共同体の信(マルコ福音書+Quelle資料+口頭伝承)
karposの伝統宗教の信(???)―― 伝統宗教の信(旧約聖書

わたしの信について語りたいんだけど、ここが実にことばにならなかったりする。
そこは、ことばを探してるところとも言えるし、ことばに出会ってるところとも言える。
言いたいことを置くためにちょっとずつ敷石をしいて、
まるで一歩ずつ、片方の足を置き、沈むことがないかたしかめながら、もう一歩、話を進める。

エスダビデの子でメシア、いつも我々とともにいる、

すでに「書かれたことば」というものは考えてみたら不思議だ。
共同体の信、伝統宗教の信は書かれたことばとしてある。
そして相変わらず、「ことばにならない信、X」は、ことばにならないまま、そこに居る。
あと、三つ目の伝統宗教の信については、議論ふくらむ領域。


こうして、今日も、書かれたことばがブログに、電脳空間に刻まれる。
実際、信じてることしか書けないわたし、けっこう正直者。