Deus Caritas Est

Deus Caritas Est「神は愛」(4),Benedicte16

4.しかしほんとうにそういうことなのか?キリスト教がエロスを破壊したのか?そこで、キリスト者以前の世界を見てみたい。他のどの文化にも類似したものがあるように、ギリシャ世界も、エロスの中に、ある種の酔い、まるで人間存在の有限性を剥ぎ取るような、また、神の権力のうちに動転させられ、より高い至福の経験をゆるすような、ある種の「神的愚かさ」に至る知性を超えるようなものを見ていた。そこでは天と地の間にある全ての他の権力は二次的なものだった。 « Omnia vincit amor »、BucoliqueにおいてVirgileが言っているように、―愛はすべてものを制する―そして彼は付け加えて、 « Et nos cedamus amori »、私たちもそう、私たちは愛に屈する*1と言っている。この態度は、さまざまな宗教で、特に肥沃宗教のかたちにおいて現われている。そのような肥沃宗教では、「聖なる」売春行為があったし、多くの神殿でそれが行われていた。つまり「エロス」は、神的力として、また神との一致として、祝われていたのである。


旧約聖書では、より大きな厳格さをもって、このようなかたちの宗教に対立していた。それらの宗教は、唯一の神への信仰に対するたいへん強い誘惑として考えられていたし、それは宗教性の腐敗としての戦いでもあった。とはいえ、エロスをそれそのものとして拒否したのではない。その破壊的なゆがみへの戦いを宣言したのだ。なぜなら、エロスの間違った神格化は人間から尊厳を奪い、人間性を喪失させるからである。実際、神殿の中にいた神の酔いを与えなければならなかった娼婦たちは、人間として、人としては扱われていなかった。彼女たちはただ、「神的愚かさ」を呼び起こすための道具として扱われていたのである。現実に彼女たちは女神ではない、もてあそばれた人々だったのだ。だから、酔って乱れたエロスは、神の「恍惚」には昇らない。逆に、人の堕落に落ちる。このように、人間に一瞬の喜びを与えることではなく、存在の頂点、全存在が目指す至福への前兆を与えるために、エロスの整えと清めが必要なのは明らかである。


福音書ギリシャ語で書かれている。ギリシャ語を用いる世界に住む初代のキリスト者(キリストの人、と言われた人々)が、ギリシャ語を用いる社会現場の中で見たこと、感じたこと、経験したことを背景に、自ら受けた信をことばにする、それが福音書である。イエスの示した「愛」をことばにしたいと願う人たち。エロスという言葉がたとえ「愛」という意味を持っていたとしても、ある意味、社会の手垢にまみれたこの言葉を使う気もちになれなかったのは、なにやら深いわけがありそうだ。社会の手垢にまみれた言葉で使いたくないと思ってしまう言葉は、私にとってまさに「宗教」という言葉なんだけど、そのあたりどうしたらいいのかB16に聞いてみたいって感じ。というわけで、もうしばらくエロスはつづく。

*1:X,69 :Les Belles Lettres, Paris 1942,p.71