出エジプトと福音

karpos2006-01-13



小休止しようと思ったけど、もう少し続けてみる。
マタイの福音だけでなく、
他の福音書も、特にパウロの手紙とか、
もちろん黙示録も、だからすべて新約聖書は、
旧約聖書の背景があって成り立つ「書」なのである。
よく新約聖書だけの聖書を持ち歩く人がいるけど、
それでは、キリスト教の聖書とは言えない。
さらに、子どものための日曜学校とかで、
創世記のノアの箱舟とか動物の絵とか貼りながら、
教えたりするけど(私もしたけど)、
旧約聖書だけを読んで、イエス・キリストについて語らなければ、
それは、キリスト教を学んだことにならない。
旧約聖書新約聖書、この両方を、
キリスト者(わたしの)の源泉の書とするためにはどうすればいいのか。


とりあえず読むしかない。


写真はシナイ山


マタイのつづき。

マタイによる福音17章1−13、22、23
(イエスの変容の場面)
1:六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2:イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3:見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5:ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6:弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7:イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8:彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。9:一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。10:彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。11:イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。12:言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」13:そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。


(死と復活の予告)
22:一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。23:そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。


この箇所がシナイ山モーセが受けた神の顕現の箇所とどうパラレルになっているかという問題。
出エジプトの19章、20章、24章13−16、34章29、明日見ることに・・・。


しかし、考えてみたら凄い話だな。イエスは、モーセどころか、モーセを超えた存在で、しかも神の子だと断言されてる。旧約聖書を後生大事にしてた人々にはいったい何事が起きたのかと晴天の霹靂だったのではないか?彼らにとって聞き覚えの或るフレーズが、すべてイエス中心に置き換えられていく。イエス・キリストの死と復活に出会った人々の内から溢れる証言。そういう証言とは何?