受難予告

karpos2006-01-14



写真はシナイの荒野を行く遊牧民と家畜。


エスの変容の場面は、
マルコ、マタイ、ルカ三つの福音書に描かれている。
この三つに共通しているのは、すべて、
この箇所が、「死(受難)と復活」の予告にはさまれているという点。
神の子、人の子としての「イエスの自意識」について、いろんな議論があるが、
他者の証言(客観)と、イエス自身の主観的意識に大きな隔たりがあったとは思えない。
たとえば、イエスの洗礼の場面とか・・・

マタイ3、16−17
16:イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17:そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


エスが神の霊を見る、と同時に、神の声を非人称の誰かが聞く。
こういうところすごくいいなと思う。


エスの変容の場面、三つの福音書をコピペ。

マルコによる福音書9章2−8


2:六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3:服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。4:エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。5:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6:ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。7:すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」8:弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。9:一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。10:彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。11:そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。12:イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。13:しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

マタイによる福音書17章1−13


1:六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2:イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3:見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5:ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6:弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7:イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8:彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。9:一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。10:彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。11:イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。12:言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」13:そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

ルカによる福音書9章28−43


28:この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29:祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。30:見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31:二人は栄光に包まれて現れ、イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。32:ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33:その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。34:ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35:すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。36:その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。


出エジプト記、エジプトでの奴隷生活を脱出するイスラエル、苦しい旅の真ん中で、シナイの荒れ野にたどり着く。天と地が、シナイ山で交差する、その動き。神がその山に降りる。モーセがその山に登る。上から降りてくる、下から登って行く、この動きが、イエスの変容場面にみごとに描かれている。

出エジプト19章全体


1:イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。2:彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。3:モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。4:あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。5:今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。6:あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」7:モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。8:民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、9:主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。10:主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、11:三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。12:民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。13:その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」14:モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、15:民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。16:三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。17:しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。18:シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。19:角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。20:主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。21:主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。22:また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」23:モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」 24:主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」25:モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。


顔の光について・・・

出エジプト記34章29−35


29:モーセシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。30:アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、31:モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。32:その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。33:モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。34:モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った35:イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。


約束の地へと向かう希望についてイスラエルはずっと語り継いできたわけだけど、
そのずっと語り継いできた救いの成就はイエスが成し遂げる(た)というこの信念は、
いったいどこから来るんだろうかと思う。
「まさか」と息を呑んでいる者たちが、息をきったように話し始める。
信とはまさに、信じられないことが起こっていることを経験した者の独白なんじゃないか。
そしてほんとに逆説的なことに、信とは信じられてないことをも含んでるんじゃないか。


モーセとエリヤと話すイエスの顔が栄光に輝いてる時、
その話し合っている内容は、ルカによれば「最後の受難」=「復活」(「栄光」)。

31:二人は栄光に包まれて現れ、イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ルカ9、31


ここで書かれている「最期」は、それこそフランス語聖書TOBギリシャ語に忠実)によれば[son depart](出発)、つまり、EXODE、つまり「出エジプト」のことなのである。最期の出エジプト(解放への苦難の旅)が、イエスの受難(十字架)への道と・・・
エスの死と復活が、旧約の歴史をすべて包括しきっちゃうという・・・