先、後

ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

マルコによる福音書10章28−31

大人の信仰。
わたしをわたしとしておくことが難しい、
わたしのことをわたしのことばで説明することが難しい、
わたしであり続ける力が弱まっている、
なんとこの国にも、そういう悩みがあるらしい。
Une foi d'adulte
大人の信仰。
こういう本が出てる。

西洋社会の多くの大人にとって、信じるということが確かな経験でなくなっている。宗教とまったく関わりを持たずに育った多くの青年層は、信仰が人間存在に何かをもたらすことができるということに関して、非常に漠然とした考えしか持てなかったり、あるいは逆に大きな偏見を持ったりしている。宗教の名による異なった原理主義の台頭が、残念ながら生み出される悲劇的な葛藤や暴力をますます助長しているし、それらは、個人的社会的生活すべての次元に貫かれると主張する、すべての宗教的な確信を揺さぶっている。宗教の世界にある距離を取っている人々-だいたい40歳前後に見られることだが-彼らは、深い新しい問いかけが浮かび上がっていることを知って、自問する:「信じるという経験は、幼児に戻ることを求めてるのではないか?ほんとうの大人であるということを諦めることなしに、信仰の経験を生きること、成長することが可能なのか?」
Paul-André Giguère,"Une foi d'adulte" Novalis,Lumen vitae,2005
前書きより

信じる「内容」が真正面から問われてくる。
なにもかも捨てる。
それはけっして幼児化することではないだろう。
なんのために、そして、どこに向かって、捨てていくのか。