超越


しかし、やっとまともに指導の先生と議論ができるようになった頃、終わらねばならないなんてなんだか残念だなって思う。
やっと出発点に立ったような、そんな感じもする。
この感じの議論を続けていたら、もうちょっと何かわかりそうなんだけど、そうもいかない、帰らねば。わかりたい欲望もほどほどに>自分。
というわけで、
超越、のことをツラツラと考える。
今ごろ、あの人は、どこそこで、何をしているのだろうか、
と、あの人のことを考える時、わたしは超越している、という。
わたしのこの思考を用いて、あの人へと超越する。
考えるという経験は、こうして超越を生む。
何かを考えるということは実に、希望だな。
つまり、今を超えるということ。
だから、B16が「人は理性で愛することができる」なんて言えるんだ。
その人を「愛する」ということは、その人のことを「考える」こと。
その人のことを考える理性による愛のはたらき。
記憶がたしかじゃないんだけど、昔、広島に住んでた頃だったと思う。
原爆が落ちたあの日、私は悲しくて泣いていましたっていう異国の修道女に会ったことがある。遠い異国で、そんなふうに、自分のことのように、私たちのことを思う人がいたのかとおどろいた記憶がある。
でも実際、世界は、こんなふうに思いの超越ネットワークに支えられているんじゃないかって、楽観的観測だけど、それはまったくばかにできない話だと思う。もしもほんとうに、そうなら、それを信じられるなら・・・
いや、事実、私はそれを信じてる。
そういう人たちに出会っていると信じるも信じないもなくなってしまう。
それは見えない話じゃなくて、ほんとに見える話だから。