自由、心性


のざりんさんの「自由であるかどうかなど超越して現われる私の心性」というのをあいかわらず考えている。
引用させていただく・・・

http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060216
2006-02-16■[ethics] 差別する自由?
≪最後のところ・・・≫
他者性を奪ってはならないからこそ、他者に対する発言を配慮する必要があるのであって、「発言してはいけない」から、ではないはずである。
私たちが本当に嘆くべきは、そうしたことをわかった上で、それでもなおかつどうしようもなく差別してしまう、誰かから他者性を奪ってしまうところの、この私の心性にある。そしてそれは自由であるかどうかなどを超越して現れてしまうのだ。それはまた切なくもある。

表現の自由」と「人間の自由」を行ったり来たりしてる。で、そんなふうに思い巡らしていると、森岡正博さんの「無痛文明論」のなかの「身体の欲望」がよぎる。うぅ、手元にないのでサイトを探す。高校の国語の教科書にこんなにわかりやすく書かれてたんですね。
こちらもコピペ・・・

http://www.lifestudies.org/jp/shintai01.htm
『高校国語教育』三省堂 2001年12月 冬号 6−8頁
いま身体をどう考えるか
森岡正博

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 身体というのは、ほんとうに、やっかいなものだなあと思う。
 朝、木立の中に入って、思い切り空気を吸い込んでみる。そのとき感じる清冽な気持ちよさ。われわれは、身体を持っているからこそ、それを味わうことができる。しかし、家に帰ってみれば、われわれは冷暖房完備の部屋に住んでいる。身体に気持ちよい快適な室温を一日中維持しておくために、莫大な電力を使い、資源を枯渇させている。
 身体の声を聞くとは、どういうことなのだろう。それは、身体にとって気持ちのいいことを、なんでもやってみるということなのだろうか。そんな疑問があって、『「からだ」と「こころ」』という文章を書いた。
 そこで書きたかったことを、別の角度からもう一度考えてみよう。
 近代思想は、人間を人間たらしめているものは「人間の精神」、とりわけ「人間の理性」だとみなしてきた。
 理性がきっちりと考えて、われわれの行動をコントロールするときに、人間は正しく振る舞えるはずだし、社会の秩序も維持されるというわけである。
 ところが、二〇世紀に入って、思想家たちはそのような考え方を本格的に疑いはじめた。人間は、理性によってコントロールできるような、単純な存在ではない。なぜなら、人間には「身体」というものがあって、理性が「ああしろ、こうしろ」といくら言っても、それをやすやすと裏切ってしまうからだ。
 「身体」ということばが分かりにくければ、たとえば「自分のからだに刻み込まれたもの」という言い方をしてもいい。フロイトはそれを「無意識」とか「トラウマ」と呼んだ。生物学はそれを「本能」とか「遺伝子」と呼んだ。
 このようにして、二〇世紀の思想は、人間にとって「身体」がいかに重要であるのかを繰り返し強調したのである。たとえば、シュタイナーのオイリュトミーや、インドの瞑想などが注目されるようになるが、それもまた、「身体の感覚を鋭敏にすることによって、人間をより深く知ることができる」という彼らの思想が人々を惹きつけたからである。その流れは、もう一つの道を探る教育実践にも影響を与えた。「子どもたちの身体が悲鳴をあげている」「子どもたちの身体の声を聴こう」という言い回しも、このような思想の流れのうえに位置づけることができる。
 私は、そのような考え方をいちがいに否定するわけではない。だが、「身体の声を聴こう」と言って、それを実践しているだけでは、どうにもならないくらい、現代文明の病理は進んでしまったのではないかという気がしてならないのだ。
 苦痛を避けて快をどこまでも追求し、いったん手にした既得権は死んでも手放さないという現代文明の宿命は、われわれの身体にこそ刻み込まれているのではないか。
 私は、その宿命のことを、「身体の欲望」と呼ぶ。身体の欲望を理性によってコントロールするのは、至難の業である。身体の欲望は、レールの上を全速力で邁進してくる巨大な蒸気機関車のようなものだ。われわれの理性は、レールの上に立ちはだかって、その機関車をストップさせるだけの力を持ち合わせていない。
 では、どうすればいいのか。
 私は欲望の「転轍」という作戦を考えている。走ってくる蒸気機関車のスピードを落とすことなく、その機関車の進路を、別の目的地に向かうレールへと巧みに切り替えてしまうことだ。そうすれば、身体の欲望という機関車は、いつの間にか、異なった方角へと誘導されてゆくことになる。
 たとえば、室温が快適にコントロールされている環境を手放したくないという身体の欲望があるとする。しかし、クーラーを消して外気を入れ、鳥や虫の鳴き声を聞きながら、冷たい水を飲むほうが、ずっと気持ちよいぞ、とわれわれの身体に向かってささやいてみたらどうだろうか。その気持ちよさは、クーラーの部屋の気持ちよさとは、また別次元の、なにか忘れていたものを思い起こさせるような気持ちよさだぞと、誘惑してみてはどうだろうか。身体の欲望が、その声に少しでも反応すれば、それがチャンスだ。そこをきっかけとして、身体の欲望を転轍できる可能性がある。
 だから、身体の欲望との戦いは、自分をいかに「誘惑する」かという戦いになるのである。私は、身体の欲望に突き動かされた現代文明のことを「無痛文明」と呼んでいる。この「無痛文明」との戦いこそが、二一世紀の最大の思想的課題のひとつになることは間違いない。

身体の欲望から自由になれない人間の在りようというか、しかし、それこそ、すべての宗教がその困難に何らかのこたえをもたらそうとしているわけなんだよねと、あらためて考えさせられる。
こういう文脈からいけば、森岡さんの提示される「転轍」は、どういうところに位置するのだろう。
わたしの理解するところのキリスト教では、身体の欲望に関して言うと、非常に強烈な人格であるイエス・キリスト(聖書に語られた、証言としての書)に真正面から出会うことによって、もっと深く、その欲望に直面させられることになっていくと思う。そして、この世界で、欲望の奥の奥へと突き進みながら、ほんとうに深みから求めていることを徹底的に探すという・・・。
「何を求めているのか」(ヨハネによる福音書1、38)。この人の声を聴いてしまったわたしが居るということなのだ。つづく