信念

karpos2006-02-15



下でコピペしたのを読んでまとめしてみたもの。
http://d.hatena.ne.jp/karpos/20060212/p2

イスラムも自由もわからない者たち


「たぶん悪意が込められていると思われる、預言者の人格に触れる風刺画によっていくらかのイスラム教徒の反応は超現実主義を超えたところに位置している。」という出だしから始まるイスラム神学者Bencheikhのコメント。事実、イスラム教組織が、風刺画を発行した国の政府のトップに荘厳に謝罪を求めるところまでいったわけだが、アラブ諸国の要求はある意味で疑問を浮き上がらせると言い、次のようにイスラム教徒自身への自問を羅列する。

「(風刺画に反論し謝罪を要求までした)イスラム教徒は、論争があればそれを乗り越えさせるようにするコーランの教えを知らないのか?彼らの心の中には“信じる者たちが我々の信仰を知らぬ者たちから罵られた時には、平和あれと言うように”の一節が刻まれていないのか?彼らは預言者自身も侮辱や屈辱のなかに虐げられていたことを知らないのか?その時代の多神教の者たちが、預言者の言葉を作り話、預言者のことをペテン師と呼んでいた時、預言者は彼らの首を捻じ曲げるようなことはせず、ただ、“神が、報復の日に我々のあいだを裁くであろう”と答えていたのを、彼らは知らないのか?手ごわく、破壊的で、疑いを撒き散らすような観念論者の前で、無神論的、論述的哲学を解釈、研究してきたイスラム教が、今日、このような趣味の悪い、風刺的な絵の前で、けっして揺らぐはずがないということを、彼らは知らないのか?」そして付け加える。「しかし、確かに堅固な宗教とはいえ、他者からの批判を逃れることはできない。さて、このくだらない煽動の前で、今日、イスラムの基礎がぐらつくことをどんなふうに望んでいるのか?」

ここから、他の種類の無知について述べる。この無知はもっと酷い無知である。イスラム教徒は、表現の自由がすべての思想、すべての信念を構築するための共通機構で、綺麗でも汚くてもその街に住むものには、煽動したり責任を持ったりする権利があり、この表現の自由のおかげで、イスラム教徒自身も民主主義国家に住む者たちには、声をあげる権利が持てるということ。誰もこの権利を妨げる者はいないし、誰も信念を持つことを邪魔したりしない。西洋に住むイスラム教徒は、この表現の自由の権利のおかげで、よくない報道を受けた時には完全に自分たちを擁護できるのだと。

さらに今回の政治的動きへの驚きを述べる。この神学者にとっての大きな驚きは、事件の後すぐに、イスラム教の国にとって前代未聞なすばやい政治的動きによって、謝罪を求め、それを受けるに至ったということ。とはいえ、このような辛らつな風刺画によって傷つけられたことはかつてなかったとも付け加える。また、デンマークのような平和で穏やかな国に対してはボイコットのような強い姿勢を示したが、アメリカ合衆国に対する安穏な態度についてどう考えるべきか、実に不幸なことに、彼らはそこに買い渡され、打撃を受けているというのに、と背後にあるものを探る。フランスにおけるユダヤ教徒組織とキリスト教への感謝を述べた後、本当の議論は別にあると次のようにしめる。

「ほんとうの議論は別にある。二つの絶対的な権利が実際、並置される必要がある。一つは、宗教的信念が完全に尊重され、それが批判されたり、烙印を押されたりすることがないようにする権利である。もう一つは、いつ何時でも、自由に表現する権利である。特に、詳細な社会的企画、明確な政治的行為にコメントを与えたり、批判するためにこの権利が必要。しかし、人々の親密で形而上的な信念に関して、それが、表現の自由というような範囲内におさまることなのかどうか、私にはわからない。考えましょう」。

主旨はだいたいこんな感じ。

最後の問題提起はけっこう複雑な話になってくると思う。一見、キリスト教神学者と似ているようだけど、実はえらい違うんじゃないかと思えてくる。それは「信念Conviction」に関するそれぞれの立場。イスラム神学者は、「信念」と「表現の自由の権利」を明らかに別の属性としてとらえ、人の信念を、表現の自由というようなレベルでは踏み込めない領域とし(聖域)、その領域を汚す者が存在する(たとえ自分たちがそれらの者の首を捻じ曲げることはせずとも神が最後に・・・裁き)と考える。基本的に、信じる者と信じない者の存在を明らかにする立場とでも言おうか。
一方、キリスト教神学者の方は、このあたりはまったく曖昧な言い方に見える。彼らも同じように「信念」と「表現の自由」のレベルが同じとは考えていないかもしれない。ただ、信じる者と信じない者との境界線があまい。信じる者と自らを言う者でさえ、間違ったイメージを産出し、神の領域を罵ることだってあると言う。

ここからは、わたしの個人的な考えだけど、キリスト教は基本的に、わたしたちの信じることがら(救いと祝福)は信じないと言っている人たちにも届く(わたしの信はわたしだけに留まらず、また共同体だけに留まらず、すべての他者のためにある)、だから信じない人を排除することがない、つまり普遍である、ということを主張しているわけだから、両者の境界線があまくなるのは当然のような気がする。こういう他者理解は、イスラム教の人々が持っているような他者理解、また、彼らの神理解ともずいぶん違ってくるような気がしてくる。キリスト教神学では、歴史的にみて、排他、包括、そして現在、多次元とか言われている「救済理解」があるが、どう考えても排他でありえるはずがない。聖書(旧約、福音すべて含め)は、全世界、全人類に開かれている救いへの招きであり、だからこそ、人間個人の固有な出来事にも接合するのだ。

というふうに考えると、逆に、今回、イスラム教の預言者について風刺画を描いた人々の側の信念が気になってくる。キリストを風刺する人々のことも気になる。つまり、あらゆる宗教的信念に対して「ノー」を投げかける人々の「もう一つの信念」があるということである。ここはある種、「叫び」の領域のようにも思える。もしもこの叫びに言葉を与え、イスラム神学者の最後のコメントにある「人々の親密で形而上的な信念に関して、それが、表現の自由というような範囲内におさまることなのかどうか?」という問いに基づいて、「宗教的信念にノーと言う人々の信念」を取り上げて考える時、まさに、神学的、論駁的、論争的にも展開しうるのではないか。こうして「表現の自由」というマスクが取り外され、本来すべき議論をせねばならないという意味では、イスラム神学者のコメントはたいへんするどい、ということになるんだな。ただ、宗教的信念にノーと言う人たちの象徴する絵が、戦争、テロをモチーフにしているだけに、この手の神学論争は一筋縄じゃいかないんだろな、ということになる。


Nekoyanagiの写真はby Katayanagi