日本語のミサ


月曜日に日本語のミサに与った。
ミサが日本人司祭により司式され聖歌から朗読からすべて日本語によって成されてる。あたりまえだけど、なんというか、驚きだった。いやはや。
フランス語のミサでもミサの中心はエウカリスチアにあり、もちろん私は充分そこで満たされてたと思うし、説教だって聞けば、なるほどと思うこともあり、また感動し、うぅと涙することもあるわけだ。だから、日本語のミサが特別素晴らしいだろうという飢えみたいなものはこれまで思いもしなかった。しかし、このミサに与り、感動というのでもなく、喜びというのでもなく、ただ、自分が、あまりにも自然に味わってる状態にまったく驚かされたという、この事実を目の当たりにした。
なんと、わたしの心がここにあるではないか。
母国語は心とくっついている。
パリにも、それぞれの国の移民が集合し(特にアジアではベトナム、中国、ヨーロッパの移民はほとんど各国の共同体がある、あとレバノン共同体も大きい)、自国語のミサをしているのだけれど、フランス語の共同体に行けばいいのに、なんて思ったりしたこともある。
でもやっぱりそれは違う。長年住めば住むほど自分の母国語による「信」が浮き出てくるというのは実は自然なことなのかもしれないと、今回、思い始めた。私の学友は「なぜ移民が自国語のカテケージスで子どもを教育したがるのか?」というテーマで論文を書いてるが、この問いには深い意味があると思う。
キリスト者としての「生」と、「自分が誰であるか?」の問いは切り離せないのだ。
イエス・キリストが「あなたはわたしを誰と言うか?」と問うように。
というわけで、三日間、この間には、V先生との論文指導という超緊張な過ぎ越しもあったが、久しぶりにH師の壮大なる福音宣言ヴィジョンで、僭越ながら議論などというものを「日本語で」させていただき、また、異国に住む日本人キリスト者の出会いによって、なんとか荒みを脱出できそうな気配がしてきてる。感謝。