Deus Caritas Est


ひさしぶりにまた再開してみたり。今回はちょっと長い。
几帳面に一日は一段落ってことにしてると几帳面にこういうことになる。

Deus Caritas Est「神は愛」(7),Benedicte16

7.どちらかと言えば哲学的ではあったが、愛の本質に関する私たちの考察は、内的なダイナミズムから聖書の信仰まで私たちを導いてきた。最初に投げられた問いは、愛という語の意味の違いがあって、ある時は逆の意味として理解される場合もあるが、それは深い一致の意味を暗示していないのか?あるいは逆に、それぞれの意味がそれぞれの意味領域のものであるままでいてはならないのか?というものであった。また、ともかく問いは、聖書によって、また教会の伝統によって私たちに告げられた愛のメッセージが、愛に関する人間の共通経験とともに見ることのできるものだったのか?あるいは、告げられたメッセージは人間経験にそぐわないものだったのではないか?というものでもあった。そこで、私たちは二つの基本的な言葉に出会ったわけだ:「社交上の」愛を示すテーマとしての、エロス、信仰に基礎づけられた、信仰によってかたちを与えられた愛を示す、アガペ。この二つの愛は、「上昇する」愛、「下降する」愛という対立関係で説明されることもある。さらに別の区別の仕方もある。たとえば、所有する愛と、献身する愛。また加えて、時々、愛はその有益さしか熱望しない、という言い方もある。


哲学的、神学的議論において、この区別(エロスとアガペ)はまったくラディカルな拮抗状態にまで至ることがあった。下降する愛、奉献的で、もっと言えば、つまりアガペは、典型的にキリスト者のものとして考えられた。逆に、キリスト教以外の文化においては、特に、ギリシャ文化で、上昇する愛によって特徴付けられたのが、エロス。それは所有する愛であり、感覚的な愛である。もしもこのアンチテーゼの両極端にそれを(エロスとアガペを)追いやったなら、キリスト教の本質は、生き生きとした関係性や人間存在の根本から切断されてしまうだろう、そして、自分自身に一つの世界を築くことになってしまうだろう。それはもしかしたら尊敬するに値するかもしれない、けれどもそれは人間存在の複雑さから完全に切り離されてしまう愛になる。実際、エロスとアガペ――上昇する愛と下降する愛――は、それぞれが引き離されるはずがない。愛の二つのかたちが、たとえそれぞれの次元が違っていても、愛の唯一のリアリティにおいてほんとうの一致を見つければ見つけるほど、一般的な意味においての愛の真実な性質もより現実となるのである。たとえ最初にエロスはどちらかと言えば感覚的、上昇的―何か素晴らしい幸福を約束してくれるかのような魅惑的なもの―だったとしても、その愛が、他者に近づくとき、それはいつも自分自身にそれほど問いを投げかけたりしないだろう、それはいつも他者の幸福を探すだろう、それは自分よりも他者の世話を考えるだろう、それは自分自身を与え、「何かのためである」ということを望むだろう。こうしてアガペの時がエロスに浸透してゆくのである。でなければ、エロス自身、自分の性質を落とし入れ、み失ってしまうのだ。別の観点から言えば、人間は、ひたすら降りることだけで奉献的な愛を生きることはできない、ということ。愛を与えたいと望む者は、その者自身が、それを与えられた贈物として受けなければならない。主が私たちに言ったように、人間は、まちがいなく、生きた水の川が流れ出るその泉になれる*1。しかし、その本当の泉になるために、その者自身いつも、最初の、そして原点であるイエス・キリストという泉から新しく飲まなければならない、彼の突き刺された心から、神の愛が湧き出る、その泉から*2


ヤコブの階段の物語について、古代教父たちは、それぞれ違った方法ではあるが、昇るというのと降りるというのが切り離されないつながりであるとして、象徴的にそれを説明した。神を探すエロス、そして、受けたその贈物を誰かに渡すアガペ。聖書のこの箇所には、父ヤコブが夢を見てて、空にかかった梯子があって、そこを神の天使が昇ったり、下りたりしていたとある*3。大グレゴリウス教皇が彼の「司牧規則」の中でこのヴィジョンを示したところの解釈はたいへん心を打つ。良い羊飼い(司牧者)は、観想のうちにしっかりと根を張らねばならない。つまり、ただそれだけで、その者は他者の要求をその心に受け入れることができるようになる、他者の要求の数々がまさに自分ものもとなるように、と言っているのだ。またここで聖グレゴリウスは、神の天のより大きな神秘にまで上げられ、そこからこの地上にまた降りてきた時、彼がすべきことすべてをしたという聖パウロ*4参照する。さらに、モーゼの例もあげている。彼はいつも、新しく聖なる幕屋に入り、神と対話のうちにそこにとどまり、その神との出会いからはじまって、彼の民に自分自身を与える準備をしたのであった。「幕屋の中では観想の祈りによって高みのうちにあり、幕屋の外では苦しみの重荷を受ける」。


良い羊飼いは観想のうちにしっかりと根を張らねばならない、それだけで他者の要求をその心に受け入れられるようになる。他者の要求が自分のものになる、と大グレゴリウスが言ってたのですね。B16が心打たれてる。たしかに教皇としてのいろんな責任とか考えると、この言葉はかなり胸に響くのではないだろうか。自分を渡して行くとはどういうことなのか、毎日の出来事によって知ることになる。
しかし、他者の要求というのは簡単じゃない。他者が要求しているものの中にはその他者自身が正義のうちに要求しているものもあれば、不正儀のうちに要求しているものもあるから。他者の要求の根にもまた源泉である地下水が通ってて、そこにつながることによって、ほんとうに深い望みを教えてもらうということができたら、良い羊飼いは、ほんものの羊飼いになるのだろう。
B16はエロスとアガペは切り離せないと言ってる。
結局ここなんだと思う。これが切り離されたり、それはそれこれはこれということになったり、どっちが良くてこっちが悪いということになったり、そういうふうに割り切れないところに何かが生まれようとする、ここが大事なんじゃないか。人間存在は複雑だと言ってるあたりもとてもいい。

*1:cf.Jn7,37-38

*2:cf.Jn19,34

*3:cf.Gn28,12 ;Jn1,51

*4:cf.2Co12,2-4 ;1Co9,22