バッタ


ビジネススクール流知的武装講座」より、
「なぜテレビで紹介された商品を買ってしまうのか?」から引用。
http://www.president.co.jp/pre/20060403/002.html

心理実験から出た
驚くべき結果

面白い実験が報告されている(小坂井敏晶『民族という虚構』東京大学出版会)。心理実験で、被験者にバッタを食べてもらう実験だ。バッタを好きこのんで食べる人はいないが、それを食べてもらおうという実験だ。「強制はしませんが、このバッタを食べてもらえませんか」と被験者に要望する。そして、「美味しかったですか?」と評価を問う。
そのあいだに一つ工夫があって、被験者にバッタを食べることを勧める担当者の性格を変えている。つまり、実験グループを二つに分けて、実験(A)では意地悪そうな実験者を起用する。もう一つの実験(B)では優しそうな人を起用する。AとBとで、被験者の反応はどう違うか、とくにバッタを食べて美味しいと思った人がどれだけいたかがポイント。「バッタは美味しい」と感じた被験者は、AかB、どちらのほうが多かったか。
「無理して食べるうえに意地悪そうな人に勧められるのだから、きっと美味しくないと感じるはずだ」と普通は思う。結果は逆だ。意地悪そうな人に勧められた被験者ほど、「美味しかった」と答えたのだ。どうしてか。
こういうことが考えられる。食べたことのないバッタを食べる。それだけでも、ストレスは大きい。さらにそれが意地悪そうな人に勧められるとなると、さらにストレスは大きくなる。そのとき、心理学の言葉で言うと、その人は「認知的不協和」の状態にあると言われる。
認知的不協和の難しい定義はさておいて、例えば、「嫌なものをムリして食べる」という認知と、「それが嫌な人に勧められている」という認知は、その人の心の中に強い葛藤(認知上の不協和)を引き起こすということがわかればさしあたり十分。まだしも優しく言われたら、葛藤(不協和)も小さい。
強い不協和を起こした人はどうするか。それを解消すべく努める。その解消の仕方の一つは、「これは美味しい」と思うことだ。勧められていやいや食べたことは気持ちの中で隠して、「美味しいから食べた」というふうに事態を考え直すことで不協和は解消される。実験の結果はそうなった。嫌なことを自ら進んで引き受けてしまったのだ!

このシリーズ、時々読んでおののいてる。
笑っちゃうこともあるが、笑えない場合は多い。
これ、生まれてはじめてアボガドを食べた時の感覚に似てる。たしか小学生だったんだけど、両親が「美味しい、美味しい」と言って食べてるのを見て、食べてみたところ、「ぜんぜん美味しくなかった」。けれど、「勧められた」ことに「美味しくないものをムリして食べる」という認知上の不協和がおこり、つい無意識に「美味しい」と言ってしまった。あれ以来、アボガドは豆腐に引き続き、第二の好物になっている、という。