Deus Caritas Est


というわけで第一部に入ってみる。
昨日からベルばら♪のフレーズが頭のなかをくるくるまわる。

Deus Caritas Est「神は愛」(2),Benedicte16

第一部「創造と救いの歴史における愛の一致性」


言語的問題


2.神の愛は、私たちにとって生へのある根本的な問いである。そして、神は誰なのか、私たちは誰なのかという決定的な質問を投げかける。この点において私たちはまず言語的問題につき当たることになる。「愛」という言葉は、今日、よく使われる言葉の一つであり、もっとも傷つけられている言葉の一つでもある。また、私たちは一人一人、この言葉に完全に違った意味合いを与えている。たとえこの回勅のテーマが、聖書と、教会の伝統における、愛という言葉の理解とその実践に絞られていたとしても、この言葉が持つ意味合い、さまざまな文化や実際に使われている言語において持つ意味合いを考慮に入れないわけにはいかない。


まず「愛」という言葉の最初の場であるところの、意味論的、つまり広い意味の部分を思い出してみよう。私たちは(普段)、故郷への愛、その人の職業への愛、友人間の愛、仕事への愛、親子の間の愛、兄弟の間の、近しい仲間の愛、そして、隣人への愛、神への愛・・・を語る。しかしこのすべて多様な意味合いにもかかわらず、男性と女性の愛は、―その愛において身体と魂が切り離せないほどに引き合い、その愛において人間のために与えられた決して抵抗することのできない幸福への約束が開花する―、この上なく優れた愛の原型として現われる。ここから一つの問いが浮かび上がる。最終的に、すべての愛のかたちは一つに統一されるのか、愛の表現の多様性にもかかわらず、愛は結局、唯一なのか、あるいは、逆に、私たちは完全に異なるさまざまなリアリティを指し示すために、ただ単にこの一つの単語を用いているだけなのか?


愛が根本的な問いであると「言う」ということ。このことばによって私たちはほんとうの愛について考え始めることができる。愛なんて考えることじゃないでしょうと誰かが言うかもしれない。でもどうなんだろ、天に広がる空について考えている科学者たちは、そんなに考えすぎなくてもいいじゃんという非科学者たちの声を聞いて、考えることをあきらめるだろうか。魅了された人は追求する。神の愛に魅了された人は愛について生涯かけて考える、けっしてやめない。