回顧と考察
ベネディクト16世、9月12日のレーゲンスブルク大学での講演
http://cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message143.htm
たいへんな反響でいろんなことが言われたし、悲しい事件も起こった。教会のトップのことばの重みがいかなるものかを知らされたことになったのは確か。
いろんな意見の中にやっぱりそれは「言っちゃダメ」だったんじゃないかというのも見たけれど、どうなのだろと自分なりに考えていた。B16の今回のテクストはそれほど単純じゃないというか、わたしにはけっこう難しかった。どんどん読んでどんどんコメントしている人たちは凄いなと思いながら。
この講演の構造上、「神の本性と人間」を巡るヒエラルキは、けっこう大切な気がする。論理の組み立てはこんな感じか・・・。
≪神の本性≫
(神の意志は人間のカテゴリーにも神自身のそれにさえもしばられない)
≪神の絶対・超越≫
(人間の主張する神の絶対性、ここは神の本性と区別される)
≪宗教の強制≫
(イスラムのジハードは、神の絶対性のため行使される)
≪人間の理性≫
(皇帝の発言の喩え。ギリシャ的。聖書との深い一致、ロゴス)
(非ヘレニズム化の三つの波、
・16世紀宗教改革→カント
・19、20世紀自由主義神学→限定的な近代理性、合理性、
・現代、文化多元性の経験に基礎→ギリシア語新約聖書の相対化
(神的なものに耳を閉ざし宗教をサブカルチャーに押しやるような理性)
こういう構造において、
教会の信仰は、神とわたしたちの間、創始者である永遠の霊とわたしたちの創造された理性との間に、真の意味での類比が存在すると、常に主張してきました。
科学性の規範、これらの方法論が、それ自体として、神への問いを排除する。そして、神への問いは、非科学的ないし前科学的な問いとされる。
したがって、ここでわたしたちは科学と理性の範囲の縮小に直面する。
わたしたちはこのことを問題にしなければならない。
わたしたちの理性概念と理性の使用を拡大する。
となる。
加えてB16は、
理性を広げる勇気をもつこと。理性の偉大さを拒絶しないこと。これが、聖書の信仰に基づく神学が、現代の議論に加わるための計画なのです。
と言っちゃってる。これは、励ましか。
人間の主張する≪神の絶対・超越≫のところが、他の宗教においてもまた教会内部においても反発を起こしていくに違いない。事実、B16も「しかし、世界の深い宗教的諸文化は、このように理性の普遍性から神的なものを排除することを、彼らのもっとも深い確信に対する攻撃とみなしています」と言っている。そういうこと全部わかってて、教皇はこれを述べた。
神さまが神ご自身のそれにさえしばられない≪神の本性≫、つまり≪愛≫に向って、人間のこのちっぽけな≪理性≫がどこまで突き抜けていけるのだろう。
人間の措定する≪神の絶対・超越≫という鋭い光線をくぐりながら。
ものすごいリスクを負いながらだけど、教会トップであり、神学者が、こんな本質を述べてしまったということに、こどばに従事する我らも背筋が伸びるというか、背筋に鳥肌の立つ思いがする。