Deus Caritas Est

Deus Caritas Est「神は愛」(6),Benedicte16

6.どのように私たちは上昇と清めのこの道を具体化すべきだろうか?人間的、神的約束が充満するようにと、どのように愛は生きられるべきなのだろうか?旧約の書の一つで、神秘主義的なものとして知られている雅歌のなかに、最初の重要な示唆を見いだすことができる。今日の解釈によれば、この書にある数々の詩は愛の歌がその起源であり、おそらく婚姻の愛を褒め称えるユダヤ人の結婚式の祝祭のためにあったものと思われる。この書に見られる愛に関する二つの違った言葉はたいへん参考になる。まずはじめに、《dodim》という言葉。複数形で用いられるこの言葉は、いまだ確かでない愛、つまり、終わりなく探求し続ける状況においての愛である。この言葉はすぐに《ahaba》という言葉に置き換えられる。これはギリシャ語による旧約聖書訳の中にみられ、それは《agape》という子音の発音で読まれる。まさにこれが私たちがこれまで見てきたように、愛の聖書的概念の特徴として表現される言葉なのである。不確定な愛、そしてそれはいまだ探求し続けているということ。このテーマは、愛という経験をよく言い表している。つまり、愛は、真に他者を見出していくということであり、明らかにあらかじめわかるようにと(他者を)支配する自己中心的な性質を乗り越えるということである。こうして愛は、他者への、そして他者のための配慮となる。愛は自分自身を探すことはない。幸福の酔いの中に沈むこともない。愛は愛されることを求めない。つまりそれは献身であり、犠牲の用意ができていることである。用意ができているどころか、愛は、犠牲を探求さえするのである。


この事実は、より高い次元に向かい、より深い清めに向かう愛の、また、決定的性質を探す愛の、その完成に大きく関係している。二つの意味においてそれが言える。一つは、排他的な性質、つまり「この人、だけ」ということ。そして二つめは、「いつまでも」ということ。愛はすべての次元において、存在の全体性を包括している。時間さえも包括するということである。愛は他のやり方では存在できない、なぜならその約束が決定的であることをねらっているから。つまり愛は永遠をねらっているのである。たしかに愛は「恍惚」である。しかし、恍惚は酔いの状態にあるという意味ではない。道としての恍惚、わたしが自分自身の中に閉じこもっているところから出て行くという絶え間ない脱出を通しての恍惚である。それは恩寵における自由に向かう。もっと詳しく言えば、そのようにして自分自身を見出していくのであり、またさらに神を見いだしていくのである。「自分のいのちを生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」(ルカ17、33)とイエスは言う。これは福音書の中に見られるイエスの確信のうちの一つであり、他の箇所にも様々な言い方で同じことを言っているのがわかる。*1このような方法でイエスは復活に至る十字架が導くパーソナルな道を語る。それはまた、一粒の麦が地に落ちて死ねば、ゆたかな実りを得るという道でもある。しかしまたイエスは、このようなパーソナルな犠牲とその成就に辿りつく愛の中心から出発して、もっと拡がりをもつ愛と人間存在の本質性にも言及する。


見いだしても見いだしても、見いだし尽くせない他者をどこまでも見出していく。愛は探求なのであり、それが終わることはない。その不確実性のゆえに、求めつづける、願いつづける。というわけで、B16は徹底的にエロスを否定しないという意向を保ちつづける。問題は方向性にありそうだ。何に向かっているのか、何を求めているのか、目の前に現われるイエスの姿がそれを問う。

パラドックスなんだよね。「この人だけ」「いつまでも」ということを考えると、それは簡単に自己中心的な愛に陥ってしまう。けれども愛からその性質を拭われることはけっしてない。自己中心的に他者を支配することなく、他者への配慮を生きるということは、一体全体どういうことなんだろうか?

*1:Cf.Mt,10.39 ;16,25 ;Mc8,35 ;Lc9,24 ;Jn12,25